純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

『インターステラー』を読み解く

/「星」は物語。テサラクトは図書館。SFの見せかけに騙されるな。安っぽい商品物語に耽り眠るな。穏やかな夜に身を委ねてはならない。/


 大学、それも芸術系の大学なので、通年講義で「SF論」なんていうのをやっている。その中で『インターステラー』を採り上げた。2014年、鬼才クリストファー・ノーランが自分で書いて撮った3時間近いハードSFの大作。

 どうも近頃、本のSF小説は、生ぬるいファンタジー化、というより、科学を不勉強なうえに、凡庸なアイディアを使い回した商業的マニエリスムの結果、幼稚で陳腐なライトノベルと化してしまっている。映画でも、あいかわらずの『スターウォーズ』や「マーヴェリックコミック」のようなシリーズばかりが話題になる。だが、その一方、『ゼロ・グラヴィティ』(2013)、『オデッセイ』(2015)など、けっこうなハードSF、つまり、ガチ科学もので傑作が出ている。その中でも、『インターステラー』は出色だ。

 しかし、映画だからといって、見えるものを見ていると、見るべきものが見えない。絵の具を見ていると、絵が見えないのと同じ。もちろん、映像スペクタクルとしても、とても出来がいい。砂嵐吹きすさぶ荒廃した広大な地上と、無音で無機的な密閉空間としての宇宙船の対比。そして、なにより、『デューン/砂の惑星』(1965、映画84)や『2001年宇宙の旅』(1968)をはじめとする、SFの名作のオマージュのてんこ盛り。というより、この作品そのものが、『2001年宇宙の旅』の解説として創られたと言ってもいいだろう。主人公の名前クーパーも、『ライトスタッフ』(1979、映画83)から取られている。

 とはいえ、このあたりで気付くべきなのだ。この映画で言う「星」が何であるかを。なぜ本棚を挟んで、不在の父親クーパーは、育って大人になっていく娘マーフィと向き合うのか。なぜ学校は『カプリコン1』(1977)のようなチンケな月着陸隠謀論を正史とするのか。なぜ喰いものを争い、技術は衰えるのか。

 宇宙だの、SFだのは、この作品の見せかけにすぎない。「星」は、物語そのもの。我々の頭脳は、いまや生ぬるく不勉強で凡庸な妄想とともに滅びようとしている。すでにダメになったというオクラは、科学とSFの象徴だ(米国のオクラは切り口が星形)。『フィールド・オブ・ドリームズ』(1989)に出てくるトウモロコシ畑のような夢の想像力も、ウィルスと砂に冒され、もはや枯れ果てようとしている。

 このままでは、いずれ地上に食料も酸素も無くなるということで、主人公たちは別の星への人類移住計画を立てる。可能性のある星は三つ。津波の星は、読み切れないほどの文字に溢れ、人生を失うような物語。氷の星は、宣伝ばかりで作者が喰って帰るためだけの不毛の物語。ミヒャエル・エンデあたりなら、この生のテーマを、そのまま話にしただろう。ノーランのすごいのは、これをガチ科学で目に見えるイメージにして見せたこと。

 物語は神秘的な体験だ。我々は、その世界の時間に没頭し、自分の時間を忘れる。戻ってきたときには、陽が暮れ、夜が更けてしまっている。しかし、我々の想像力は、この現実という諦めを飛び越え、別の「星」へ行くことができる。それこそが、人類を救う道。だが、いくら本を外側から表紙だけを見ていても、なにもわからない。中をくぐり抜けた者しか、報告を返すこと、道筋を伝えることはできない。

 時空を越える五次元の中の四次元テサラクトは、図書館そのもの。「彼ら」というのは、物語の読者たち。読者たちこそが、主人公をテサラクトに導く。この話からして、もともとメタな物語。だから、空間に時間、さらにパラレルな物語を含む五次元。そして、この物語宇宙を横断する「図書館」を通じてクーパーは、未来の希望を、娘マーフィに本で伝える。父親のメッセージを、娘マーフィは本で受け取る。本を通じ、マーフィは、自分を置いて去ってしまった父親が、ずっとすぐそばにいてくれていたことを知る。

 本として、クーパーは、約束通り、老いたマーフィのもとに戻った。だが、「彼ら」の一人、つまり、死を目前に控えたマーフィは言う、また行って、と。クーパーの同僚アメリアが一人降り立った第三の可能性の星は、作者も死んで忘れられた、しかし、いまなお多くの読者を待っている物語。そこへクーパーは、老いてなお、再び旅出つ。

 ある意味で、すべては、娘マーフィの頭の中での出来事。失った父親が、彼女の想像力の中では、物語のヒーローとなり、宇宙を旅して、さまざまな星を遍歴し、それでいて、すぐそばにいていつでも知恵と勇気と希望をくれ、なおまた、いまも旅を続けている。本の力、物語の力とは、そういうものだ。この『インターステラー』もまた、先に『インセプション』(2010)を作ったノーランらしい構造。

 SFの見せかけに騙されるな。安っぽい商品物語に耽り眠るな。穏やかな夜に身を委ねてはならない。陽が沈むときこそ、人が燃え上がるべきだ。絶えゆく光を断じて許すな、断じて許すな。我々に宇宙船もタイムマシンも必要無いのだ。人間の想像力は、いともかんたんに時空を飛び越えることができる。『ある日どこかで』(1980)のように、ただ念じるだけで、物語世界の中に没入することができる。しかし、我々は、帰ってくるのでなければならない。中の報告を返し、残る人々にも道筋を伝えるのでなければならない。だから、それを、ここにこうして書いておこう。そして、読書の秋(とき)、この現実という「星」を遠く離れ、別の「星」へと、きみも想像力の旅をしてみよう。


Youtubeやってみた:教育教材市場の可能性

/講義は、知識伝達ではなく、義を講じるもの。つまり、意義の動機付けこそが、主軸。知識については、本来、自分で図書館で学んでおくのが筋。こんにち、Eラーニングとか言っているものの大半は、知識伝達のための教材を紙の講義録からデジタルに置き換えただけ。それでも、Eラーニング市場は、じつはかなり大きく、ゲームやアニメより日本のコンテンツ産業の可能性が開けている。/


 いまどき、古いノートを読み上げ、板書を写させる、なんていう講義は、学生に見捨てられる。かと言って、アクティヴ・ラーニングの美名で、学生たちに好き勝手にしゃべらせ、遊ばせているだけというのも、どうかと思う。

 昔から、地方や勤労、貧困など通学困難な事情下にあっても、正規学生の講義録ノートを譲り受けて、勉強しようという篤学の者はいた。また、往復書簡によって、師の指導を仰ぐ、ということも、古来、ずっと行われてきた。また、ラジオやテレビの発達とともに、語学講座は人気を集めた。世界的にみれば、1958年にロンドン大学が、通信学習生にも正規学位を認定するようになり、世紀末から20世紀初頭にかけて、そしてまた、第二次世界大戦後に、さまざまな手法が工夫され、通信教育が発達した。

 自分も、長年、大学の通信教育に関わってきたが、正直なところ、日本でうまくいったとは言いがたい。というのも、大半の通信制学生の就学理由が「大卒」資格取得の一点のみであり、とにかくとっとと適当に卒業したい、というだけだから。とはいえ、これは、通学生の学生も大差あるまい。就学名目で上京し、都会の生活を満喫したい、「大卒」資格を取って、就職の足がかりにしたい、というだけで、大学で勉強をしよう、などと思ってはいない。

 欧州や米国の大学と較べてみると、これはかなり異常だ。とにかく日々の課題の量が半端ではなく、大学生活と言えば、ひたすら図書館で勉学、と決まっており、都会かどうかなど問題にならない。授業料は欧州のように原則無償であったり、米国のように全寮制で法外な高額であったりするが、いずれも、いい加減な学生のほとんどを振り落とし、かんたんに卒業とはならない。そして、日本以上に就職に大卒学位が意味を持ち、雇われる側から雇う側、経営側になるには、修士以上が求められる。

 欧米の大学はもちろん、日本の大学の通信制においても、一般にスクーリング、つまり、期間限定でも登校して教授の講義を受講することが必須。というのも、大学の講義というのは、二つの面から成り立っている。
1 知識の伝達
2 意義の動機付け
講義録や放送を提供する通信制でも、1はできるが、2ができない。通信制は、勉学の動機がもともと自分にあることが大前提。

 つまり、本来、「講義」は、「義」を講じるもの。その元となる知識は、図書館で自分で学んでおけ、というのが大学の姿。ところが、日本の大学は、明治時代、まだ図書館が十分ではなく、国家を担うエリート人材を養成する、ということが、学生にも教授にもあまりに当然自明の前提であったので、教授は舶来知識の伝達に終始し、動機付けの教育を行う必要がなかった。しかし、戦後に大学が爆発的に増大拡大しても、この「片手落ち」の悪習が続き、調べるだけならネットの方が早い、大学など行かなくていい、などとバカガキどもに揶揄される始末。その結果、大学は通っているだけ。「講義」を「抗議」とか「講議」とか書くマヌケ学生がゴロゴロ。

 こんにち、Eラーニングとか言っているものの大半も、結局のところ、知識伝達のための教材を紙の講義録からデジタルに置き換えただけ。本人自身に勉学の必要性、意欲や動機が無ければ、そんなもの、飛ばし見るだけ。一方通行の放送語学講座が苦戦衰退し、結局、生身の先生と会話するテレビ電話型の面接授業にシフトしているのも、同じ理由。

 なぜか、は、わからない。だが、人は人によってのみ、感化され、動機づけられる。だから、数千年の昔から、人間には学校がある。塾なども、いくら有名講師の衛星授業を取り入れても、最後は生身の講師がついて個別指導するのでないと、実際の学力向上につながらない。しかし、この感化力は一歩間違えると、意義の動機付けだけで、知識として歪んだ、インチキ自己啓発セミナーの洗脳になってしまう。立派な教授が、まともな知識で、きちんと動機付けするのでなければ、かえって害になる。

 それでも、Eラーニング市場は、じつはかなり大きい。というのも、日本に限らず、世界中どこも、各地の大学の細切れの講義を廻すために、とりあえず知識があればいい、という程度の水準で多くの凡人に「教授」をさせてきたから。そんな知識の伝達だけなら、もともと、きちんとした図書館、きちんとした教科書さえあれば、十分。それも、時代に合わせ、デジタルで、紙の本やロートルの読み上げより魅力的なものは作れる。狭い連中相手のマンネリなアニメやゲームなどより、世界の教育市場に優れた教材を提供した方が、日本のコンテンツ製作能力は生き残れる可能性がある。とくに、アジアやアフリカの教育水準向上が急務とされる現状において、日本は大きなチャンスを握っている。

 というわけで、とりあえず、自分でも、すこしやってみた。従来の知識伝達型の「講義」をただ録画しただけ、などというのでは、いまさら、まったく意味がない。とはいえ、意義をきちんと伝えるととなると、教室とは勝手が違い、演出の手間もあり、かなり大変だ。まだまだ工夫の余地は大きい。


Voice of Daimonion: Socrates' Irony: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 10

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Dike: inevitability of destiny: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 03

ディケー:運命の必然性 純丘先生の1分哲学03

Hylozoism: Myth to Science: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 02

物活論:神話から学問へ 純丘先生の1分哲学02

Arche: the beginning of Philosophy: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 01

アルケー:哲学の誕生 純丘先生の1分哲学01

社員が現場で働け!:人手不足の元凶は本社の肥大

/人手不足というが、本社管理部門の肥大、その迷走こそが、現場に人を集まらなくしてしまっている。少子化と市場縮小において、日本は大手数社と試行的中小しか生き残れない。名ばかりのホワイトカラーなど、なんの役にも立たない。いまのうちに現場に習熟しておいてこそ、大統合の後、真のホワイトカラーとして生き残る道。/


 東京の朝の満員電車での通勤を見ていると、どこが人手不足なんだか、と思う。この連中がみんな現場へ出て働けばいいだけのこと。

 人手不足、人手不足、というのは、ようするに工場や店舗など、現場でのこと。バイトだの、契約社員だの、安い時給でマニュアル通りに作業する単純労働力が足らないだけ。それに比べて、本社のバカでかいこと。社内の権益争いの結果、どの部課もとにかく競って人数を増やすが、それで生産性が上がるわけではない。むしろ意思決定関与者が多すぎるせいで、その調整でムダに労力を浪費している。

 たとえば会議。百人でやっても、六人でやっても、結論は一つ。生産性ということからすれば、人数が多いほどムダ。六人ならパッと集まってプロジェクターで資料提示して、その場で結論が出る。ところが、百人となると、出張だ、宿泊だ、航空券の手配だ、に始まって、会議前の根回し相談で、また逆出張。それに付随して飲食、社内接待。会議そのものも、会議室の手配、プレゼンの準備、資料の編集印刷、音響だ、スクリーンだ、お茶のペットボトルの運搬だ、と、単純な人数のかけ算では済まない。幾何級数的に時間と手間が増大する。それで、結局、紛糾して、結論一つも出ないで、持ち越し。そんなことばかりやっているから、管理部門はどんどんでかくなる。

 とくにムダなのが企画。こんなの、同じ連中をずっと雇っていて、なんどもすごいアイディアを連発できるわけがない。前にすごい功績があったとしても、その後の出ガラシみたいなやつらから知恵を絞り出そうとすれば、いよいよムダに調査だ、マーケティングだ、と、人をケムに巻く能書きばかりを垂れて、間接費用がどんどんでかくなる。こんなの、むしろ外注コンペで、生きのいい新鮮な外の風を入れればいいだけのこと。

 新聞社やテレビ局が、その典型。現場取材する人数より、他人の原稿にちゃちゃを入れる人数、階層の方がはるかに多くなってしまった。もちろん原稿チェックは必要だが、実際に現場を取材していない大量の連中が妄想と偏見でいじくりまわすから、どんどんわけのわからないものになる。そのくせ、もともとがウソ八百でも、形式さえ整っていれば、平気で載ってしまう。

  じつは昔の侍も、同じ道をたどった。鎧を着て刀を振り回しているような勇壮なイメージがあるが、直接の戦闘なんて、一年に何度かあるかどうか。それも半日で決着がついた。戦国時代の侍の日常は、ほとんど毎日、土木工事。徴用した農民たちに指図するだけでなく、自分たちもまた、穴を掘って、石を積み上げ、武器を作って備えた。ところが、江戸時代になると、戦闘が無くなったばかりでなく、土木工事さえ、ぜんぶ外注。年ガラ年中、そのための資金繰り。幕末になって、いざ自分で戦わなければならないとなると、郷士たちにボロ負け。

 会社自体からして多すぎる。日本の経済規模で言えば、各分野、安定大手の二、三社と、試行的な新興中小がいくつか、という、航空や宅配、携帯の姿が均衡状態だろう。だから、新聞業界の場合、おそらく遠からず朝日と毎日、読売と産経が合併せざるをえまい。テレビも、広告効果が激減しており、いずれ民放の大統合があるだろう。銀行やコンビニ、自動車、電機は、すでにそっちへ向かって動いていっている。この国での最適解のパターンは、どこもほぼ同じになる。同じようなチャンネルが複数あったって、代替選択肢としては共倒れ。そんな同じものの構築なら、四番手、五番手は、規模効果からして管理部門を支えきれない。

 もとはと言えば、やたらわけのわからない大学が増えて、見かけだけのホワイトカラーが増えすぎたせいだ。内実からすれば、ホワイトカラーとして、ブルーカラーを統率するほどの能力を持っていない。はっきり言って、ただの凡人。その烏合の衆が東京の満員電車で本社に集まり、だれでも思いつく程度の凡庸な方針のすり合わせに四苦八苦して、人生をすり減らしている。それで人手不足だと。安い時給で、本社のバカどもがコロコロ変えるチンケな方針とやらに振り回されるのがイヤだから、現場に人が集まらないんだよ。(コンビニとか、本社に入れたというだけで巡回してきて偉そうに指図するガキや小娘より、脱サラ組のフランチャイズ店長の方が、よほど長年の現場経験もあり、改善方向も見えていたりする。だから、バカバカしくなって契約更新せず、みな廃業してしまう。)

 こんな体制は、だれも幸せにならない。少子化の市場縮小で、六番手、七番手の会社が大手に吸収され、その大手の中でも四番手、五番手がまるごと潰れていく。名ばかりのホワイトカラー、自分自身で手を汚して働いたこともなく、かといって優れた統率力があるわけでもない連中が、失業解雇されて現場に落ちてくるが、なまじ半端なプライドで、いよいよモノにならない。海外工場に委託した方がまし、ということになる。かといって、ノマドだ、フリーランスだ、と言ったところで、しょせんは没落士族の商法。明治時代と同じ悲劇が繰り返される。

 結局のところ、仕事は現場にある。本社は、そのサポートにすぎない。生き残りたければ、大手であろうと、現場に習熟しておくことだ。大統合においても、現場を知るものだけが、現場で、そして、管理部門でも有用とされる。見かけ倒しのホワイトカラー、管理部門しか知らない人材は、すでに重複過剰、それどころか停滞と沈没の元凶。ほんとうのホワイトカラー、現場をよく知り、ブルーカラーの人々の信任を得、かれらを統率して、ともに生き残りを模索する。残された時間は、もう長くはない。ホワイトカラーだろうと、妙な安っぽいプライドを捨て、みずからできるだけ機会を作って、現場を訪れ、実際に自分で手と足を動かしてみよう。

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