純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

マイナス金利の行きつくところ

/消費税8%は、貯金の余裕のない世帯にとって、生涯賃金総資産が9年で半減するほどのマイナス金利を食らっているのと同じ。上層や企業からも貯金や預金を吐き出させるためには、消費税を超えるところまでマイナス金利(貨幣資産課税)を上げなければならない。しかし、必要も見込も無いのに消費や投資を強いられ、貯金もできないとなると、あとは脱経済生活を目指すしかあるまい。/


 マイナス金利の政策としての意義はさておき、マイナス金利が妥当とされてしまう経済状況は、どこへ向かっているのか。


 通常、金利はプラスだ。カネは使ってこそ財が得られる。そして、いま使いたい人の方が多いから、自分は使わないで人に貸してくれる人に御礼、つまり金利が付く。これに対して、マイナス金利ということは、いま使いたくない人の方が多く、人から借りてまで使ってくれる者の方に御礼が付く。


 この御礼、つまり金利は、いま自分が使えば、それくらいの利潤があってしかるべき、という損得ぎりぎりの数値まで上がって均衡する。たとえば、バブルのときのように、いま早く投資しておけば、これくらいはだれでも当然に儲かるはず、というぎりぎりのところまで金利は上昇する。これが逆にマイナス金利だと、いま使えば、これくらいの損はやむをえない、と市場がみなしている、ということだ。


 金利計算では「72の法則」が便利。年利x倍増年数=72。10年で倍にするには、年利7.2%の複利運用、ということになる。実際、バブルのころは、これくらいだった。一方、サラ金の上限18%だと、4年で借金が倍になる。さて、マイナス金利の場合でも、この計算は成り立つ。マイナス7.2%だと、10年で半減。


 マイナス金利導入で騒いでいるが、じつはすでに消費税がマイナス金利の同類。使わなければ、10万円は10万円。しかし、10万円を使うと、消費税8%だから、8000円の「罰金」を食らう。通常なら、加熱しすぎた消費を抑制するブレーキとして消費税を使う。だが、支出が最低限の生活必需品ばかりで、この消費全般に恒常的にかかってきている、ということは、収入の全額を支出して消費税を食らっている、貯金の余裕も無く、なにかしらのローンを負っている中下層世帯は、実質的には複利で、9年で生涯賃金総資産が半減していっているのと同じ。上層世帯や企業も、ちょっとやそっとマイナス金利のアクセルを踏んででもカネを使わないのは、フローの支出で消費税の罰金を食らうより、多少のマイナス金利で引かれても、元がストックとして残る貯金や預金の方がまだましだから。鞭と鞭で、マイナス金利(貨幣資産課税)が消費税より大きくなったとき、ようやく、どのみち損なら、損の小さい方、つまり、貯金や預金より消費や投資、ということになる。


 しかし、貯金もできない、となると、生活保護受給者と同様、ヘタに稼ぐだけバカバカしい。カネは、ババ。必要以上に稼がない、持たない、残さない、ということに。いや、現物資産、金や不動産なら、という連中もいる。だが、金なんて、もっとも個人で使用価値が無い。まして不動産など、通貨がバカになって、流動性、換金性を失えば、それこそ権利登記上の空理空論。戦後の焼け跡のように実効支配するやつが出てきてしまう。


 実際、ほんの二百年前まで、経済なんて、そんなものだった。19世紀半ばに大量生産の工業資本主義が出てきて、生産規模を早く拡大したやつがウイナーテイクオールということになったからこそ、金融資本主義が庶民の小銭までかき集めて采配を握った。しかし、現在のように、何をやってもダメ、たいていはマイナス金利相当に損をするだろう、というほど、市場の平準的な見込が冷え込んでしまっていると、どうにもならない。量産効果に代わる投資根拠が無いのだ。


 取引自体、戦後の焼け跡のように、直接に普遍的な使用価値のあるもの、米やイモの物々交換が主流に戻るだろう。金や権利証より今日の飯。だから、いまやるなら、開墾か。幕末から明治初期、幕府・政府が米本位から金本位に切り替えるまで、かなり手間取ったように、米やイモの物々交換の管理監督体制ができるまでには、相当の時間がかかる。しかし、苦労して開墾したところで、どこぞの原子力発電所が放射能でも撒き散らせば、一巻の終わり。自己管理できないリスクが大きすぎる。


 今の時代、なるようにしかならない、ヘタに動けば、動いただけ、消費税その他の罰を食らう。明るい見込も立たないのに、あえてリスクを背負うことは無い。なにもしない、というのが合理的な最善の経済選択。中世や近世が驚異の安定的停滞であったように、人間はリスクを取って未来に投資するものだ、などという前提は、リスクを超えるチャンスがあった20世紀のみの妄想。なのに、いまだにその古い妄想を盲信し、消費税だ、マイナス金利だ、と、必要も見込も無いのに消費や投資へカネを吐き出させようとすれば、いよいよ末期の息の根まで吐き出させるだけ。


ここまで各国政府が新時代、ポスト資本主義に無策無能となると、その悪影響をできるだけ回避すべく、庭を耕して体を動かし、釣りや野草摘みを楽しみ、御近所さんと物々交換をして、縁側でネコを撫でながら、旧友と将棋でも指して暮らす、「豊かな無職」の脱経済生活を目指すしかあるまい。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソ ン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

友人や先輩、先生はよく選ぼう

/いまさら、学校が悪い、と言ったところで、取返しがつかない。だからこそ、友人をよく選び、良い先輩、良い先生を見つけ、指導を仰ぎ、なんでも相談して、本当に困ったときには本気で助けてもらおう。そのためにも、嫌な連中の推薦になど頼らず、良い友人、良い先輩、良い先生の方から自分を見出してもらえるように、まず自分自身が自力でがんばろう。/


 こういう事件があると、学校が悪い、ということにするのが一番かんたん。万引をしたのか、同姓の別人と間違えられたのか、ガラスを割っただけなのか、よくわからないが、だれにせよ、この学校には、万引事件を起こすような学生がいる、という点は事実のようだ。


 ずいぶん前、同業者の知人(法学部教授)から、夜中に突然、相談の電話があった。自分のところの学生が警察に拘引され、大騒ぎになっている、と。強姦事件の現行犯で、現場で逮捕された。だが、実際に強姦をやらかしたのは、他大学の連中。彼のところの学生は、連中の知人で、逮捕のときは店の外にいた。しかし、警察としては、その学生も共犯者で、見張りをしながら、順番待ちをしていた、とみなされた。もちろん、本人は、店の中のことは、自分は関係ない、と言っている。だが、被害者からすれば、彼もまた悪仲間で、完全な強姦犯の一味。刑事、民事で面倒な裁判になるだろうが、結論が出るまで、そうとうに時間がかかる。それまで、大学としてその学生をどうしたらいいか。


 そんなこと聞かれても、法学でもわからんことが、哲学なんかにわかるものか。せいぜい言えるのは、そんな連中と関わっているから、面倒に巻き込まれる、くらいか。麻薬だの、賭博だの、不倫だの、賄賂だの、近頃、どうなっているのやら。有名なスポーツ選手やタレント、政治家が、ヤクザやチンピラ、どうみても怪しい男や女と写っている写真がゴロゴロ出てくる。やったか、やらないか、真相なんか、当事者でもないし、警察でも、文春でもないのだから、わかるわけがない。だが、写真が合成でない以上、付き合いがあったことは事実だろう。実際にやろうと、やるまいと、そんな連中と付き合っているというだけで、やっぱりロクなモンじゃないよな、と思う。


 顔が広い、付き合いがいい、人脈を持っている、というと、あたかも良いことのようだが、『論語』に孔子いわく、皆に愛される者より、善人に愛され、悪人に嫌われる者が勝る、と。来る者、拒まず、去る者、追わず、なんて、やっていると、ほかで排除された妙な連中ばかりが寄ってくる。そして、悪貨は良貨を駆逐する。妙な連中に取り巻かれて悦に入っている者の周囲からは、潮が引くようにまともな連中は離れていく。そして、朱に交われば赤くなる。この言葉も、まず良い意味では使われまい。


 春から生活が変わる、という人も多いだろう。だが、最初が肝心。そこでしくじると、ヘタをすれば一生が闇。だが逆に、一生に二度とない貴重なチャンスともなる。よくよく自分を振り返り、自分もああなりたいと思うような仲間たちの中に入れてもらって、学ばせてもらえば、知らなかった世界への扉も開ける。とくに先輩や先生は、よく選ぼう。数年でも、先輩はだてに先に生まれて、長く生きてきているわけではない。まして、先生は、数多くの学生たちを見てきている。


 私も、学校では相性の悪い先生方も少なくなった。進路指導で散々に言っていたのに全国模試で三位だったとたんに手の平を返してきた先生もいた。その一方、知らない間に私の絵をユネスコに送って賞を取らせてくれた先生、他のクラスの担任だったのに、私の夏休みの自由研究を見て、科学コンテストに出させてくれた先生もいた。


 さて、かの事件だが、ろくな学校でないのは確かだし、おまけに不運と不幸が重なって、結末には同情を禁じ得ない。だが、世の中は理不尽だ。XXが悪い、などと後から言ったところで、だれも悔い改めたりしないし、同じようなことは、かならずどこかでまた繰り返される。残念ながら、人生にはこういう致命的な誤解もあるのだ。だからこそ、事前予防と攻勢準備が肝心。学校や友人はよく選ぼう。そして、担任であろうとなかろうと、上司であろうとなかろうと、自分が心から信頼できる良い先生、良い先輩を見つけて、指導を仰ぎ、なんでも相談して、本当に困ったときには本気で助けてもらおう。そのためにも、けっして嫌な連中の推薦になど頼らず、良い友人、良い先輩、良い先生の方から自分を見出してもらえるように、まず自分自身が自力でがんばろう。これは、人ごとではない。君の問題だ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

ドラえもんがのび太を殺す

/ドラえもんにすれば、本は売れる。学校も、子供たちに迎合すれば、子供たちに喜ばれる。だが、本や学校はしょせん実体験のための準備。つまらなくて、難しくて、面倒で、でも、それを読んで、そこで学んで、外に飛び出したとき、いままでできなかったことができ、自分自身が生き生きと活躍できる世界が見つけられる。それが本、それが学校じゃないのか。/


 ドラえもんは便利だ。なんでも、なんとかしてくれる。しかし、そのせいで、のび太は永遠の小学四年生。意志薄弱、無気力怠惰。不幸な将来という運命はいまだに変わらず、ドラえもんは未来に戻ることもない。典型的な共依存だ。


 子供の問題ではない。むしろ出版社、そして、学校や教育産業の方が、のび太。最近の本屋や図書館の児童書のコーナーを見ると、びっくりする。ドラえもんだらけ。国語算数理科社会、英語に歴史に自然、スポーツ。ぜんぶマンガ。中はイラストだらけで、文章はスッカスカ。本が売れなくて困ってるんだ、どぉにかしてよぉ、ドラえもぉ~ん、ってか。実際、ドラえもんに「学習」とつければ、なんでも、なんとか売れてしまうらしい。


 ドラえもんに限らない。幼稚園・保育園は、アンパンマン中毒。ミッキーと違って版権が緩いせいで、なにかと言うと、なんにでもアンパンマンを使う。運動会も、お遊戯会も、バスを待つ間もアンパンマン。イエス様や仏様よりアンパンマン。小学校の図書館は、ゾロリだらけ。プラネタリウムまで、ドラえもん、アンパンマンにコナン。大学や専門学校も、学生集めに四苦八苦しているところは、就職の見込みも立たないのに、すぐガキに受けそうな学科をでっちあげる。おまえら、みんな、のび太か?


 子供はハンバーグが大好き。それ以上に、ハンバーグは楽。作るのが安くて簡単。味をごまかして、野菜も混ぜ込める。困ったときの鉄板メニューだ。しかし、親なら、肉は硬くて、魚には骨があり、野菜は苦甘いことを教えていく義務がある。高くて、調理が面倒でも、なんとか肉や魚、野菜の味を教えていく義務がある。ハンバーグばかりでやりすごしていたら、子供がダメになる。いや、徹底的にダメにした方が、永遠に親離れできず、手元に置いておいて、カネづるにして、老後の世話もさせられ、その方が都合がいい?


 昔、1970年から、小学館では「入門百科シリーズ」を出していた。それが、バブルの終わり、1994年、207巻で息絶えた。学研では「ジュニアチャンピオンコース」。1971年から2000年くらいまでは売られていた。勉強も学習も知ったこっちゃない。野球に始まり、探偵入門、手品、世界の謎、占いやクッキング、超能力まで。著者たちも、いまにして思うと、けっこうなもので、学研『名探偵登場』なんか、モンキーパンチ本人が巻頭の「ホームズ対ルパン」を楽しんで書き下ろしていたりする。河出書房は、経営が青息吐息でも、「少年少女世界の文学」全24巻別2巻を世に送り出した。翻訳は、犬養道子や丸山才一、谷川俊太郎、福永武彦、イラストは岩崎ちひろや長新太などなど。これがおもしろくなかったわけがない。


 小学館は、2013年から、現代風のあか抜けたレイアウトに変え、「入門百科プラスシリーズ」を再開したが、それほど動きがいいようでもない。それでも、『女の子はじめます』『学校生活応援ブック』『めざせパティシエ』『ストリートダンス入門』など、かつてのシリーズでも無かったような分野にチャレンジしており、内容の評価は高い。


 マンガやアニメの黄金期があったのも、それ以前に、子供向けの生の世界文学全集があり、また、さまざまな分野の生の子供向け入門書があり、それらを読んで育ってきた世代がいたからこそ。その肉と魚と野菜を噛み砕いで、世界でも見たことがない、おもしろいものを生み出してきた。一方、マンガやアニメしか知らない、実体験の無い世代は、その焼き直し、どこかで見たことのあるような劣化コピーしか作れない。ハンバーグは、潰してもハンバーグしかできない。味もハンバーグのまま。


 本なんて、しょせん本だ。学校なんて、しょせん学校だ。本や学校を楽しく、なんて、まさにハンバーグ。つまらなくて、難しくて、面倒で、でも、それを読んで、そこで学んで、外に飛び出したとき、いままでできなかったことができ、自分自身が生き生きと活躍できる世界が見つけられる。それが本、それが学校じゃないのか。ドラえもんばかり買って与える親も親だ。親の仕事は、もう世話になんかならなくていい、と、子に言わせてこそ。本や学校も、アンパン中毒だの、ドラ漬け廃児だのを作って、永遠に喰いものにし続けるのではなく、きちんと子供たちが外で活躍できるようにする手助けをしてこそ。親も、出版社も、本屋や学校も、ドラえもん頼みの目先の手抜きやカネ儲けではなく、ほんとうに子供のためになることを自分自身の本来の仕事として、もっと真剣に考えようよ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大 学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソ ン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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