純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

Youtubeやってみた:教育教材市場の可能性

/講義は、知識伝達ではなく、義を講じるもの。つまり、意義の動機付けこそが、主軸。知識については、本来、自分で図書館で学んでおくのが筋。こんにち、Eラーニングとか言っているものの大半は、知識伝達のための教材を紙の講義録からデジタルに置き換えただけ。それでも、Eラーニング市場は、じつはかなり大きく、ゲームやアニメより日本のコンテンツ産業の可能性が開けている。/


 いまどき、古いノートを読み上げ、板書を写させる、なんていう講義は、学生に見捨てられる。かと言って、アクティヴ・ラーニングの美名で、学生たちに好き勝手にしゃべらせ、遊ばせているだけというのも、どうかと思う。

 昔から、地方や勤労、貧困など通学困難な事情下にあっても、正規学生の講義録ノートを譲り受けて、勉強しようという篤学の者はいた。また、往復書簡によって、師の指導を仰ぐ、ということも、古来、ずっと行われてきた。また、ラジオやテレビの発達とともに、語学講座は人気を集めた。世界的にみれば、1958年にロンドン大学が、通信学習生にも正規学位を認定するようになり、世紀末から20世紀初頭にかけて、そしてまた、第二次世界大戦後に、さまざまな手法が工夫され、通信教育が発達した。

 自分も、長年、大学の通信教育に関わってきたが、正直なところ、日本でうまくいったとは言いがたい。というのも、大半の通信制学生の就学理由が「大卒」資格取得の一点のみであり、とにかくとっとと適当に卒業したい、というだけだから。とはいえ、これは、通学生の学生も大差あるまい。就学名目で上京し、都会の生活を満喫したい、「大卒」資格を取って、就職の足がかりにしたい、というだけで、大学で勉強をしよう、などと思ってはいない。

 欧州や米国の大学と較べてみると、これはかなり異常だ。とにかく日々の課題の量が半端ではなく、大学生活と言えば、ひたすら図書館で勉学、と決まっており、都会かどうかなど問題にならない。授業料は欧州のように原則無償であったり、米国のように全寮制で法外な高額であったりするが、いずれも、いい加減な学生のほとんどを振り落とし、かんたんに卒業とはならない。そして、日本以上に就職に大卒学位が意味を持ち、雇われる側から雇う側、経営側になるには、修士以上が求められる。

 欧米の大学はもちろん、日本の大学の通信制においても、一般にスクーリング、つまり、期間限定でも登校して教授の講義を受講することが必須。というのも、大学の講義というのは、二つの面から成り立っている。
1 知識の伝達
2 意義の動機付け
講義録や放送を提供する通信制でも、1はできるが、2ができない。通信制は、勉学の動機がもともと自分にあることが大前提。

 つまり、本来、「講義」は、「義」を講じるもの。その元となる知識は、図書館で自分で学んでおけ、というのが大学の姿。ところが、日本の大学は、明治時代、まだ図書館が十分ではなく、国家を担うエリート人材を養成する、ということが、学生にも教授にもあまりに当然自明の前提であったので、教授は舶来知識の伝達に終始し、動機付けの教育を行う必要がなかった。しかし、戦後に大学が爆発的に増大拡大しても、この「片手落ち」の悪習が続き、調べるだけならネットの方が早い、大学など行かなくていい、などとバカガキどもに揶揄される始末。その結果、大学は通っているだけ。「講義」を「抗議」とか「講議」とか書くマヌケ学生がゴロゴロ。

 こんにち、Eラーニングとか言っているものの大半も、結局のところ、知識伝達のための教材を紙の講義録からデジタルに置き換えただけ。本人自身に勉学の必要性、意欲や動機が無ければ、そんなもの、飛ばし見るだけ。一方通行の放送語学講座が苦戦衰退し、結局、生身の先生と会話するテレビ電話型の面接授業にシフトしているのも、同じ理由。

 なぜか、は、わからない。だが、人は人によってのみ、感化され、動機づけられる。だから、数千年の昔から、人間には学校がある。塾なども、いくら有名講師の衛星授業を取り入れても、最後は生身の講師がついて個別指導するのでないと、実際の学力向上につながらない。しかし、この感化力は一歩間違えると、意義の動機付けだけで、知識として歪んだ、インチキ自己啓発セミナーの洗脳になってしまう。立派な教授が、まともな知識で、きちんと動機付けするのでなければ、かえって害になる。

 それでも、Eラーニング市場は、じつはかなり大きい。というのも、日本に限らず、世界中どこも、各地の大学の細切れの講義を廻すために、とりあえず知識があればいい、という程度の水準で多くの凡人に「教授」をさせてきたから。そんな知識の伝達だけなら、もともと、きちんとした図書館、きちんとした教科書さえあれば、十分。それも、時代に合わせ、デジタルで、紙の本やロートルの読み上げより魅力的なものは作れる。狭い連中相手のマンネリなアニメやゲームなどより、世界の教育市場に優れた教材を提供した方が、日本のコンテンツ製作能力は生き残れる可能性がある。とくに、アジアやアフリカの教育水準向上が急務とされる現状において、日本は大きなチャンスを握っている。

 というわけで、とりあえず、自分でも、すこしやってみた。従来の知識伝達型の「講義」をただ録画しただけ、などというのでは、いまさら、まったく意味がない。とはいえ、意義をきちんと伝えるととなると、教室とは勝手が違い、演出の手間もあり、かなり大変だ。まだまだ工夫の余地は大きい。


Voice of Daimonion: Socrates' Irony: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 10

ダイモニオンの声:ソクラテスの皮肉 純丘先生の1分哲学10

metron: sophists and their measures: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 09

メトロン:ソフィストと万物の尺度 純丘先生の1分哲学09

Shikisoku-Zeku: Empty-Aspect of Chinese Buddhism: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 08

色即是空:執着の滅却 純丘先生の1分哲学08

Four Buddhism Credos: nirvana of reversal idea: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 07

四法印:仏教の根本 純丘先生の1分哲学07

Wu Wei: Oriental besic thought: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 06

無為自然:老子と荘子 純丘先生の1分哲学06

Dao: Chinese ancient creed: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 05

ダオ:中国の道教 純丘先生の1分哲学05

to Eon: existence of the world: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 04

ト・エオン:世界の存在 純丘先生の1分哲学04

Dike: inevitability of destiny: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 03

ディケー:運命の必然性 純丘先生の1分哲学03

Hylozoism: Myth to Science: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 02

物活論:神話から学問へ 純丘先生の1分哲学02

Arche: the beginning of Philosophy: Prof. Sumioka's One-Minute Philosophy! 01

アルケー:哲学の誕生 純丘先生の1分哲学01

社員が現場で働け!:人手不足の元凶は本社の肥大

/人手不足というが、本社管理部門の肥大、その迷走こそが、現場に人を集まらなくしてしまっている。少子化と市場縮小において、日本は大手数社と試行的中小しか生き残れない。名ばかりのホワイトカラーなど、なんの役にも立たない。いまのうちに現場に習熟しておいてこそ、大統合の後、真のホワイトカラーとして生き残る道。/


 東京の朝の満員電車での通勤を見ていると、どこが人手不足なんだか、と思う。この連中がみんな現場へ出て働けばいいだけのこと。

 人手不足、人手不足、というのは、ようするに工場や店舗など、現場でのこと。バイトだの、契約社員だの、安い時給でマニュアル通りに作業する単純労働力が足らないだけ。それに比べて、本社のバカでかいこと。社内の権益争いの結果、どの部課もとにかく競って人数を増やすが、それで生産性が上がるわけではない。むしろ意思決定関与者が多すぎるせいで、その調整でムダに労力を浪費している。

 たとえば会議。百人でやっても、六人でやっても、結論は一つ。生産性ということからすれば、人数が多いほどムダ。六人ならパッと集まってプロジェクターで資料提示して、その場で結論が出る。ところが、百人となると、出張だ、宿泊だ、航空券の手配だ、に始まって、会議前の根回し相談で、また逆出張。それに付随して飲食、社内接待。会議そのものも、会議室の手配、プレゼンの準備、資料の編集印刷、音響だ、スクリーンだ、お茶のペットボトルの運搬だ、と、単純な人数のかけ算では済まない。幾何級数的に時間と手間が増大する。それで、結局、紛糾して、結論一つも出ないで、持ち越し。そんなことばかりやっているから、管理部門はどんどんでかくなる。

 とくにムダなのが企画。こんなの、同じ連中をずっと雇っていて、なんどもすごいアイディアを連発できるわけがない。前にすごい功績があったとしても、その後の出ガラシみたいなやつらから知恵を絞り出そうとすれば、いよいよムダに調査だ、マーケティングだ、と、人をケムに巻く能書きばかりを垂れて、間接費用がどんどんでかくなる。こんなの、むしろ外注コンペで、生きのいい新鮮な外の風を入れればいいだけのこと。

 新聞社やテレビ局が、その典型。現場取材する人数より、他人の原稿にちゃちゃを入れる人数、階層の方がはるかに多くなってしまった。もちろん原稿チェックは必要だが、実際に現場を取材していない大量の連中が妄想と偏見でいじくりまわすから、どんどんわけのわからないものになる。そのくせ、もともとがウソ八百でも、形式さえ整っていれば、平気で載ってしまう。

  じつは昔の侍も、同じ道をたどった。鎧を着て刀を振り回しているような勇壮なイメージがあるが、直接の戦闘なんて、一年に何度かあるかどうか。それも半日で決着がついた。戦国時代の侍の日常は、ほとんど毎日、土木工事。徴用した農民たちに指図するだけでなく、自分たちもまた、穴を掘って、石を積み上げ、武器を作って備えた。ところが、江戸時代になると、戦闘が無くなったばかりでなく、土木工事さえ、ぜんぶ外注。年ガラ年中、そのための資金繰り。幕末になって、いざ自分で戦わなければならないとなると、郷士たちにボロ負け。

 会社自体からして多すぎる。日本の経済規模で言えば、各分野、安定大手の二、三社と、試行的な新興中小がいくつか、という、航空や宅配、携帯の姿が均衡状態だろう。だから、新聞業界の場合、おそらく遠からず朝日と毎日、読売と産経が合併せざるをえまい。テレビも、広告効果が激減しており、いずれ民放の大統合があるだろう。銀行やコンビニ、自動車、電機は、すでにそっちへ向かって動いていっている。この国での最適解のパターンは、どこもほぼ同じになる。同じようなチャンネルが複数あったって、代替選択肢としては共倒れ。そんな同じものの構築なら、四番手、五番手は、規模効果からして管理部門を支えきれない。

 もとはと言えば、やたらわけのわからない大学が増えて、見かけだけのホワイトカラーが増えすぎたせいだ。内実からすれば、ホワイトカラーとして、ブルーカラーを統率するほどの能力を持っていない。はっきり言って、ただの凡人。その烏合の衆が東京の満員電車で本社に集まり、だれでも思いつく程度の凡庸な方針のすり合わせに四苦八苦して、人生をすり減らしている。それで人手不足だと。安い時給で、本社のバカどもがコロコロ変えるチンケな方針とやらに振り回されるのがイヤだから、現場に人が集まらないんだよ。(コンビニとか、本社に入れたというだけで巡回してきて偉そうに指図するガキや小娘より、脱サラ組のフランチャイズ店長の方が、よほど長年の現場経験もあり、改善方向も見えていたりする。だから、バカバカしくなって契約更新せず、みな廃業してしまう。)

 こんな体制は、だれも幸せにならない。少子化の市場縮小で、六番手、七番手の会社が大手に吸収され、その大手の中でも四番手、五番手がまるごと潰れていく。名ばかりのホワイトカラー、自分自身で手を汚して働いたこともなく、かといって優れた統率力があるわけでもない連中が、失業解雇されて現場に落ちてくるが、なまじ半端なプライドで、いよいよモノにならない。海外工場に委託した方がまし、ということになる。かといって、ノマドだ、フリーランスだ、と言ったところで、しょせんは没落士族の商法。明治時代と同じ悲劇が繰り返される。

 結局のところ、仕事は現場にある。本社は、そのサポートにすぎない。生き残りたければ、大手であろうと、現場に習熟しておくことだ。大統合においても、現場を知るものだけが、現場で、そして、管理部門でも有用とされる。見かけ倒しのホワイトカラー、管理部門しか知らない人材は、すでに重複過剰、それどころか停滞と沈没の元凶。ほんとうのホワイトカラー、現場をよく知り、ブルーカラーの人々の信任を得、かれらを統率して、ともに生き残りを模索する。残された時間は、もう長くはない。ホワイトカラーだろうと、妙な安っぽいプライドを捨て、みずからできるだけ機会を作って、現場を訪れ、実際に自分で手と足を動かしてみよう。

フリーブックスの閉鎖と電子書籍の明日

/スマホで、電子書籍、とくにマンガのレガシーが主要商材として再注目されている。そんな中、年会費制の読み放題が、電子書籍図書館として機能し始めている。しかし、こここそが、違法無料サイトのデータ流出元としてもっとも疑わしい。とはいえ、もともと公共の図書館からして、同じようなしくみ。この根本を変えなければ、書籍のデジタル化、レガシーの再生に対応できない。/


 3日夕、話題になりすぎたフリーブックスのサイトが消滅した。昨年末にできて、日本のマンガを中心に数ヶ月で数万冊を抱え、それも無料ということで中高生に人気だった。しかし、類似の「違法」サイトは、ちょっと探せば、あいかわらずネット上にゴロゴロ。私なんかの小難しい本まで、私の知らない間に並んでいたりするので、とてもびっくり。出所はかならずしもはっきりしないが、かなり組織的に、機械的に、手当たり次第のデータ収集が行われているように思う。そうでもないと、私の学術書なんか拾うとは思えない。

 こんな「違法」サイトがはやる第一の原因は、電子書籍の変貌。第二の原因は、DRM(デジタル・ライト・マネジメント、電子著作権管理)の脆弱性。そして、第三の原因は、amazonなどの読み放題。

 電子書籍は、当初、専用端末向けで、とくに日本語は縦書やルビに対応することが必要だった。しかし、白黒の電子書籍だけのために高価な端末を買う人は多くなく、それで、結局、ほとんど市場が広がらないまま。ところが、この数年、爆発的にスマホが普及。あまりに短命なポップミュージックや、おもに個人の情報供給に依存する動画やニュースの配信がネタ切れし始めた一方、眠れる膨大なレガシーを抱えていた電子書籍、とくにマンガが、その主要商材として再注目されている。

 古いコンテンツでも、デジタル化で蘇る。日付更新で著作権が延命される。ところが、この著作権管理、DRMがあまりに脆い。かんたんに外されてコピーがおおっぴらにあちこちアップロードされている。フリーなんとかなども、たてまえは Amazon kindle などと同様に、自分の作品を直接に出版(パブリッシング=公開)できるサイトで、その著作権の有無はアップロードした者の責任とされ、サイト側は、知らん、と突っぱねていたが、一般の人々の「善意」だけで、違法コピーがこれほど集まるとは、とうてい信じがたい。

 では、元データをどこで入手しているのか。第一に疑われるのは、出版関係者。電子書籍フォーマットに合わせるのはけっこう面倒なので、以前(2013年)に問題があった製版プロセスとは別ルートだろう。だが、デジタルデータとなると、第二に、出版社サイドでなくても、販売サイトもあやしい。運営からシステム管理まで、関係者はあまりに多い。だが、それ以上に疑わしいのが、読み放題。Amazonなどでは、会費さえ払えば、電子書籍がいくらでもダウンロードできてしまう。これで大量に落としてDRMを外されたら、どうしようもない。

 いちおうAmazonだと、読まれたページ数に応じて、著者に配当があることにはなっているのだが、実際のデータトラフィックを公開しているわけでなく、どういうカウントなのか、写真集やマンガと小説や詩集のようにページあたりのデータ量が極端に違うものをどう評価しているのか、ページ数単価に書籍原価がどう反映されているのかは、jasrac以上に闇の一任。正直、ワリがあわないな、かといって、他に手もないし、というのが、大半の加盟者の本音だろう。

 しかし、公共の図書館に至っては、物理的に本一冊を買っただけで、大量の人々にただで読ませて、著者や出版社にはまったく配当無しなのだから、Amazonよりひどい。そして、公共の図書館のようなものがある以上、フリーなんとかも、会費は払った、それで合法的にダウンロードしたものを、自分の「知り合い」と「私的」に廻し読みして、なにが悪い、DRMの方が著作権法上の越権だ、ということになる。

 図書カードの時代でもあるまいに、公共の図書館でも、どの本がいつだれに貸し出されたのかくらい電子管理されている。動物園だのプールだのも有料、自分自身の住民票一枚を取るだけでも市役所はカネを取るのだから、公益に資する学術目的や被教育権としての勉学目的ならともかく、図書館で公務員に手間をかけさせて私用の娯楽書を借り出し、それで無料などという方が、公務と著者、出版社に対する冒涜であり、税金の盗み取りではないか。

 図書館には無料で図書提供でいい。館内なら無料閲覧もいい。だが、館外の貸出には、消費税程度は利用者から徴収するのが当然。同様に、音楽配信や電子書籍にしても、ダウンロードは無料でもかまわない。だが、端末でデータを開くたび、もしくは通話と同じように開いている総時間に、ワンタイム・パスワードでネット課金して、きちんと著者や出版社にも正確に利益還元されるようにする必要がある。(電子書籍なのに、仮想ページ数で配当なんて、amazonは感覚としてあまりに時代遅れだろう。)

 書籍の電子化に対して、システム、いや、それ以前に、本に関わる人々の意識が古すぎる。まず公共の図書館がきちんと書籍に対する敬意をカネで示さないと、先人たちが積み上げてきたレガシーをデジタル再生する動機と資金が出版社に確保されない。公共の図書館そのものが、物理的な管理コストと新規出版の電子化で、遠からず総デジタル化せざるをえない、という現実を、みな、きちんと認識すべきだ。ここでまともな側が対応をあやまれば、いよいよ労作の著者たちを食い潰して、流行の娯楽の上前をはねるだけの出版文化に成り下がり、違法サイトとどっちもどっちということになりかねない。

ギャラリー