純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

半額だの無料だの最近はウソとバカばっか


/昨今はやりのタダ・ビジネスなどというものは、経済学的には、まったくの空理空論だ。そのツケの方が、はるかに大きい。ところが、バカな経営者は、自分自身でさえコストの見積もりを勘違いし、大勢の顧客まで巻き込んで自滅する。/


 こんなの、メディアリテラシー以前の問題だろう。企業が商売でやっている以上、そして、その円環の中でビジネスが行われている以上、半額だの、無料だの、ということがあるわけがない。
 
 昨年、『フリー』という本がたいそう売れたが、結局は、昔ながらの三つのモデルに還元される。一つは、三角サービス。獣医は犬を治療するが、カネは犬からではなく、犬の飼い主から得る。行為の依頼者と、行為の対象者がずれている。このために、一見、行為の対象者からすれば、タダであるかのように思われる。しかし、たとえば、視聴者にとってタダのテレビでも、実際は、番組スポンサーの商品の価格に広く薄くその費用が乗せられ、見てもいない番組の分まで、ごたまぜに払わさせられている。ほんとうは、実際に見た番組の視聴料だけを払った方が、はるかに安い。
 
 もう一つは、寄せ餌サービス。タダだ、半額だ、と、人を集めて、その中から客を釣る。羽布団や健康食品なんかでもよくあるインチキ手法だ。それが、最近は、ネットや携帯に出てきた。これも、タダの部分は、結局、後で高いカネを払わさせられるので、かえって高くつく。100円バーガーにつられて入ってきた客に、うまくセットメニューを売りつけられれば、原価率からしてボロ儲け。もちろん、デパ地下などであれば、味見だけして食い逃げ、という手もないではないが、携帯ゲームの場合、こいつらが、高いカネを払う連中の寄せ餌そのものとなるので、むしろタダで負け組のサクラを雇っているようなものだろう。
 
 三つ目は、投資償還後の開放。当初は有料だった道路も、その投資金額を回収した後はタダにしてもかまわない。著作権なども、その年限後は、パブリックドメインとして、コピーフリーとなる。しかし、近年は、著作権の年限切れ後も、商標権などの別の方法で妙な連中が私物化してしまうことが多く、簡単にはタダにはならない。まして、道路その他は維持更新に費用がかかり、タダになることなど、永遠の空理空論でしかない。
 
 結局、どこかにツケが回る。いや、それによって、客の数がまとまれば、その規模効果で、誰も損をしない、などという連中がいるが、それはウソだ。経験効果は、数量が倍になって3割のコストダウンがいいところ。それも、せいぜい大量生産による固定費の均等割にすぎない。だから、鶏肉ばかりの焼き鳥屋なら、正体不明の激安輸入食材の大量まとめ買いでコストダウンも可能だろうが、少量多品種の素材を要する高級レストランとなると、原価比率が高いので、規模効果はまったくない。それどころか、品質の良いものの数量を揃えようとすると、原価はむしろ爆発的に跳ね上がってしまう。

 たとえば、旬のアンティチョークや杏茸、聖護院胡瓜のような特殊なレギューム(野菜)を、同じ味、同じ鮮度、同じ大きさで百人分も揃えるとなれば、まずその何倍もの数量を、あちこちから無理をしてかき集め、業者頼みか自分自身の目で厳選し直すしかない。いや、無理をして数を優先すれば、結局、全体の質を落とし、店そのものの評判を落とすことになる。だから、まともなレストランや料亭、旅館で、割引クーポンなんかを使って妙な宣伝をして、大勢の一見客が一時に押しかけることを望むところなど絶対に無い。
 
 まして、一人一人に手作りの接客サービスを提供する業界は、もともと割引などできる余地がない。設備の稼働率を上げ、従業員をアルバイトに入れ替えてもサービスは変らない、などと経営者が思うのであれば、サービス業のセンスが無い。カランの前に並ばなければならないような温泉で、客がゆっくりできるわけがない。老舗ホテルなど、それが、いつものホテルであるのは、ホテルの顔とも言うべき、いつものホテルパーソンがそこにいて、出迎えてくれればこそだ。たしかにサービス業は、バブルの時期にはしゃぎすぎた。需要以上の拡張をして、稼働率を下げてしまった。しかし、だからといって、30枚の1万円札を、30分の1ずつずらして切って貼って、31枚にするようなやり方では、むしろリピーターはさらに減る。
 
 そして、それ以上に恐ろしいのは、口コミだ。たとえ一時一瞬でも手抜きをすれば、ネットにずっと掲載され続ける。掃除が行き届いていない、店員が横柄だ、パンフレットの写真と部屋や食事の内容が違う、等々。たまたま、などという言いわけは通用しない。とくにクリスマスや正月、結婚披露宴などのお祝い事では、小さなミスでさえ命取りになる。そうでなくても、まず安全や品質などの最低線を絶対確保するのは、カネを取るビジネスとして当然のことだ。
 
 そして、どんなに万全を期しても、トラブルは起きる。だが、その畏れこそが、経営者の仕事ではないのか。正月だからといって、連絡がつかない、などというのは、論外。発送して、お客様に届いたことを確認してなお、お客様がそれを開け、納得し、食べ切っていただけたはずの賞味期限の翌日までが、ずっと仕事だ。従業員はともかく、経営者は、戦々恐々として、ただひたすら何事もないことを祈って待つ。そして、いつ、どんなクレームがあっても、ただちに応対し、もしもそれが重大な安全上の問題であれば、他の購入者全員にただちに連絡をして、回収しなければならない。人の上に乗って高い報酬を得る、ということには、相応の責任がある。

 買う方も買う方だ。クーポンだかなんだか知らないが、半額だの、無料だのというようなものなら、それはジャンクか型落ち処分などのワケありに決まっている。うまく安く得することもあるが、ひどい目に遭うときもある。そして、確率論的に言えば、経済学として、最終的に値段相応で均衡する。すこしも得ではない。だから、お祝い事や旅行で、大失敗してケチをつけたくなければ、多少、高くても、きちんと信用のおける、長年の実績のあるところを使うべきだろう。そうでなければ、結局、もっと高くつくリスクを負う。
 
 商品の価格というのは、もともと品質保証や損害保険を含んでいる。人によっては、そういう抱き合わせはいらない、自分でフォローできる、ということもあり、格安は、そういう人のための特別な選択肢だ。ワケありのワケも理解できないのに、格安に飛びつけば、それこそ自分がいいカモにされるだけだ。
 
 いくら不景気でも、仕掛けるだの、打って出るだの、寝ぼけたことをいう暇があったら、まずきっちりと守りを固めた方がいい。安物買いの銭失いをしているような余裕は、経営者側にも、消費者側にも、もう無いはずだ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

大桃・麻木・山路の不倫騒動と報道業界人脈の解体


/1985年の『ニュース・ステーション』に始まったニュースショーは、キャスターという奇妙な、人脈依存のタレントたちを数多く創り出し、世論操作的に政権を転覆させたが、そのことが報道の現場を歪め、本物のジャーナリストたちの怒りを買っている。/


 師走にもなって大いに盛り上がったバカ話だが、その闇の奥は、じつはかなり深い。なんでこんなたそがれた連中の何年も前の話が、いまさら表沙汰になってテレビを賑わすか、と言えば、その背後で報道業界の大きな解体が起こっているからにほかならない。
 
 今回の一件も、もとはと言えば、大桃のツイッターなどではなく、武闘派で知られるジャーナリストの日垣隆が、10月9日のツィッターで、山路が愛人の麻木にたかっている、と言及したことだ。その後、山路が11月7日にミャンマー入国で拘束され、これを心配した大桃が12月20日にネット検索して、日垣の情報を知り、思わずそれをツイートしてしまった、という経緯。
 
 しかし、その最大の標的は、山路でも、麻木でもなく、もともと彼が揉めているTBSラジオの番組問題。日垣は、もともとTBSラジオで、野球中継オフ期の日曜夜の「サイエンス・サイトーク」というインタヴュー番組を1999年来、担当していた。ところが、9月22日、日垣は、スタッフの変更と減少を理由に、今年度の番組の初回録音に現れず、番組の制作費流用の疑いをツィッターで撒き、9月25日には損害賠償として1500万円を要求。TBS側は、三条毅史が、プロデューサーの体調不良によるスタッフ変更であって、制作費流用は無い、と反論。日高は、三条が麻木の熱烈なファンであることを承知で、先の言及となる。
 
 これまた、なんとかならんかねぇ、というような、業界でよくあるようなコジレ話。しかし、これが不倫話とリンクするのは偶然ではない。さらに根をたどれば、1985年にまで遡る。日本教育テレビ(NET)は、1957年に、日経、東映、旺文社などによって教育番組専門局として創設されたもののの、営業的には完全に失敗。その後、朝日新聞の傘下となり、77年に「テレビ朝日」となって、かろうじて全国ネットを確立するも、「万年4位」と言われ、視聴率的にも低迷していた。スポンサーと媒体の拡大を狙う電通は、1980年に米国でスタートしたCNNを参考に、「報道」をウリにする大変革を試みる。このために、ワイドショーから社内叩き上げの小田久栄門が、報道局の次長に滑り込み、報道関連のアークヒルズ移転を期に、1985年に『ニュース・ステーション』を立ち上げた。


 『ニュース・ステーション』の成功を追って、TBSは、89年、朝日新聞社から筑紫哲也を引き抜いて『NEWS23』を、一方、テレビ朝日は、同89年、毎日新聞社から鳥越俊太郎を引き抜いて(上層部の筑紫との交換トレードで現場に押しつけられたとのウワサあり)『ザ・スクープ』を始める。この前後、テレビ朝日では、84年に『CNNデイウォッチ』、86年に田丸美寿々の『モーニングショー』、87年に『CNNヘッドライン』が始まり、女性ニュースキャスターたちが脚光を浴びるようになる。局アナから独立してテレビ朝日と専属契約を結ぶ小宮悦子は『ニュース・ステーション』発足当時からのサブキャスター、その後にフジで活躍する安藤優子も『ニュースステーション』のレポーター出身だ。大桃は、89年にTBSの『地球!朝一番』でキャスターに。『オールナイト・フジ』出身の麻木も、遅ればせながら、95年にテレビ朝日の『サタデー/サンデー・ジャングル』でキャスターに転進している。
 
 注意すべきは、これらのニュースショーの多くは、局の報道局の制作ではなかった、ということだ。つまり、報道番組ではなく、ニュース素材を使った情報ヴァラエティ、と呼ぶべきものだった。『ニュース・ステーション』の司会者久米宏らをマネジメントするヴェラエティ番組制作会社にすぎなかったオフィス・トゥー・ワンは、報道情報番組制作会社へと大きく変貌する。老舗のテレビマンユニオン、ドキュメンタリージャパン、日本テレワークなどのほか、有象無象が報道番組制作会社を立ち上げた。山路のAPFも、そのひとつ。とにかく、ニュース素材は、高値で売れるのだ。毎日、数時間ものニュース番組の枠を埋め、他局と競って高視聴率を保つのは容易なことではない。局の威信を賭けて、特ダネが欲しい。まして、特落ち(特ダネ落ち、他の各局が取材しているのに自局だけ絵が無い)は絶対に避けたい。バブルによって、国際情報が株価や為替に影響するようになると、株や為替に関係のない連中まで、ニュースに浮かれた。キャスターも、本来の意味での番組責任者ではなかった。ゴルフ三昧の日々を送り、打ち合わせの直前に来て、延々と鏡の前で髪を整え、原稿を読み上げ、一般ウケしそうなコメントをするだけ。

 とくに93年9月の『ザ・スクープ』の中国死刑囚臓器売買ヤラセ事件は、今にして思えば、全体の構図を象徴していた。外部の制作会社のせいにして、番組のキャスターである鳥越は、まるで他人ごと。じつは、このとき、鳥越を含め、テレビ朝日は、8月に成立した細川新政権に係り切りだった。10月13日の産経新聞によって問題視されることになる9月21日の日本民間放送連盟の放送番組調査会で、テレビ朝日報道局長椿貞良が、「小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」「共産党に意見表明の機会を与えることは、かえってフェアネスではない」とのとの方針で局内をまとめた、との趣旨の発言を行い、そのうえ、自民党を悪代官のイメージに、野党側を善人のイメージにした、新政権はテレビ朝日が作った、と言ったとか、言わないとか。テレビ朝日は、翌年の夏までかかって社内調査を行い、この発言は事実ではない、として、郵政省は厳重注意だけで沙汰止みとした。
 
 社内調査で、そういう方針など無かった、というのだから、無かったのだろうが、衆議院の証人喚問で、椿報道局長を追求したのは、現自民党総裁の谷垣禎一にほかならない。そして、朝日新聞社と毎日新聞社、テレビ朝日とTBSの当時の報道番組ブームの中での制作会社を介した結びつきは、独立の全国ネット局とは思えないほど、複雑に絡み合っている。安保運動や全学連などで活躍した人々の両局のゲストや制作者としての出入りまで含めれば、どう見ても公正・中立・客観とは程遠い。
 
 しかし、2000年代に入って、各局のニュースショーは、自滅的に死臭を放ち出す。最大の原因は、細川新政権によって報道局の自民党人脈が使いものにならなくなったのと時を同じくして、バブルもはじけたはずの1994年ころから、キャスターやコメンテーターのギャラが、一般タレント以上に法外に高騰していったことだ。局アナにすぎなかった連中も、次々とマネジメント会社に籍を移し、ギャラを釣り上げた。高橋圭三の圭三プロ、関口宏の三桂(大桃はここの所属)、女性アナ専門のセントフォースなどに加え、個人事務所が乱立。局内に残った記者も増長し、報道人として致命的なはずの不明朗な金銭問題で社内処分を受けながら、いつの間にかコメンテーターとして画面に復活しているやからもいる。この結果、ニュース素材を取材する現場の方の予算を絞り込まざるをえなくなった。このため、制作会社の方でも、キャスターやコメンテーターのマネジメント業務に手を広げ、番組にキャスター以下のキャスティングを抱き合わせして、番組を丸ごと囲い込む動きが強まった。

 しかし、制作会社の中においても、団塊世代の創立メンバーが高給の管理職として上層に吹きだまり、実際の制作現場、取材現場は、薄給未熟練者たちのみによる長時間多重労働に追いやられた。この結果、無理な企画や取材が現場に押しつけられ、ヤラセや捏造を生む結果となった。2007年に発覚した関西テレビ系列の『発掘あるある大辞典』のヤラセや捏造の常習は、1998年から始まっていることが、その後の検証によって明らかになっている。ニュースショー番組でも、売り込みのガセネタに飛びついてしまったり、ヤラセや捏造、違法な取材など、異常な問題が増え続けている。山路のAPFでも、2007年に長井健司が現地取材中に殺害されてしまったが、事前調査と安全装備の不足が指摘されている。くわえて、APFは、TBSの『報道特集NEXT』における2009年の偽造紙幣の取材で、違法手段を採り、BPO(放送倫理・番組向上機構)に「常識の欠如」とまで非難されている。
 
 さて、今日、長引く不景気、ネットの拡大、視聴率の低迷などを受け、テレビ局は、どこもギリギリの経営を強いられている。これほど過剰なニュースショーなど、もともとカネ儲けを目当てに始めただけのものだ。費用対効果がないなら、続けるまでもない。まして、ギャラばかり高く、視聴率に結びつかないキャスターやコメンテーターなど、なんの意味もない。折しも、80年代にニュースショーを成功させて出世した重役たちが、この数年でみな引退している。その昔の愛人だのなんだの、今の現場のプロデューサーやディレクターからすれば、むしろ、やっかい者でしかあるまい。まして、いよいよ民主党が政権を取ったものの、17年前の細川政権当時と変らず、小沢問題で内部分裂を起こしてしまえば、その縁故にすがっているキャスターやコメンテーター、制作会社トップなど、もはやテレビ局にゴリ押しをするための後ろ盾もあるまい。
 
 米国の歴史家ブーアスティンは、1962年の名著『イメージ』において、需要に応じてニュースが作られる現状を批判した。毎日の新聞の紙面を埋め、ニュースの時間をつなぐほど、世間の人々にとって重大な事件など、起こってはいない。紙面や時間に空白を作らないために、あえて相手を挑発し、失言を引き出し、憶測で膨らまし、騒ぎを立てて、往復ビンタでネタにする。しかし、こんなのが報道か。他人の不幸をネタにして法外な大金を得ることに痛みを感じないような連中の、どこか報道人か。

 いま、この時間、年末の深夜、年始の早朝、誰もいない街に出勤し、世界各地からのニュースをチェックし、何事もないことに安堵している報道局員がいる。ときには何日も相手の家の前で待ち続け、心からの信頼を得て、真実を聞き出そうと努めている記者もいる。ましてワイドショーのレポーターは、一日の休みもなく、国内でも、海外でも、ほんとうにどこにでも実際に足を運んでいる。取材の基本は、べらべらと冗舌にしゃべることではなく、まず自分で現場に行ってみること、そして、ただ黙って人々の話を聞くことだ。
 
 画面の中でだけ、うまく立ち回っているやつ、右へ左へカネの工面ばかりして、やっつけ仕事で済ましているやつは、いつかヤキが回る。本人たちはジャーナリストを気取っているが、本物のジャーナリストたちからすれば、彼らほど本物の報道を害している連中はいない。そうでなくても、この四半世紀来の実体のないニュースショーで躍ってきたやつらに対しては、局内のドラマやヴァラエティ、ワイドショーの人々、政治を引っかき回された人々、ニュースショーで紋切り型の取材を受けて人生を狂わされた人々は、積もりに積もった恨みがある。自分たちが取材される側になるのも、当然のツケだろう。いずれにせよ、そろそろこんなジャーナリストゴッコは精算どきだ。
 

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

東京都青少年条例改正の後始末(その1:出版社編)


/可決の流れが固まった10日になって、コミック10社会が反対の意思表示として都のアニメフェアの不参加を表明したが、賛成の意思表示として全国のPTAや教育委員会がこれらの出版社に不買運動をかければ、ひとたまりもあるまい。それゆえ、むしろ、これは、これらの出版社内部における大きな事業戦略再定義の結果と見るべきだろう。/


 同条例改正は、12月10日(金)午前の都民主党内の合意により、13日(月)に都議会総務委員会で採決、15日(水)の本会議で可決の見通しとなった。もともと2月案が6月に否決された後、都側は、都民主党側の反論をすべてくみ取る形で意見調整を図ってきたので、再案が提出された時点で、すでにこの流れは決まっていた。一方、この間、出版界側は、自主解決を試みることなく、問題を放置していた。この責任は非常に重い。
 
 そのうえ、一部の出版社が、都の当局と改正案策定で裏取引をしようとして都側に拒絶された、などという、みっともない話も漏れ聞こえてきている。本来であれば、出版社側が業界団体として自主的に意見統一をし、自分たちで方針を打ち出すのが当然であるにもかかわらず、みずからギリギリのエロ表現を狙うチキンレースを繰り広げていて、足並みを揃えることができず、業界団体に属さない多数の出版社を取りまとめることができない、という無能さを露呈し、そのことこそが、都に、この問題に介入する口実を与えてしまったのではなかったのか。行政の圧力を借りなければ、業界も、社内のマンガ・セクションも、まとめられない、抑えられない、というのは、経営として、すでに失敗だ。
 
 マンガを出している「コミック10社会」(秋田書店、角川書店、講談社、集英社、小学館、少年画報社、新潮社、白泉社、双葉社、リイド社)は、ようやく10日午後になって、2011年3月末に都や日本動画協会による委員会が主催する「東京国際アニメフェア」のボイコットを表明。その理由は、都と、この実行委員長である石原都知事に強い不信感を抱いている、とのこと。
 
 「その内容と条文をあらかじめ公にして、議論を尽くすべき」というのは、6月以降に都と都民主党との間で員数合わせの意見調整が密室で行われたことに対する批判だが、しかし、そんなもの、否決された2月案としてすでに原案は示されており、11月22日には、今回の再案そのものもきちんと公表されていた。にもかかわらず、2月以降、表現の自由に即した表現者の責任について自分たちで議論せず、また、都側がこの再案を公表してから後の19日間も、マンガ家まかせ、評論家まかせで、出版社として何の意見表明すらせず、ほったらかしていたのは、いったい誰なのか。これでは、なにを今さら間抜けな、と思われるだけだ。
 
 しかし、完全に流れの固まった10日午後になってようやく共同声明を出したのも、もともと出版社としての予定の行動、とも取れる。いくら今の出版社がマンガの収益に依存しているとはいえ、大手であればあるほど、社内には、出版人のモラルとして、やはりあんなエロ表現はまずい、と考えている人は多い。だが、アニメフェアのボイコットなら、対外的にはいちおう表現の自由をアピールできるし、同時に、際限なく増長する社内のマンガ・セクションも自滅させられる、との、上層部の高度の社内政治判断が働いている、と考えることもできるだろう。

 だいいち、これらの出版社が本気で条例改正に反対すれば、今度は、条例改正に賛成している全国のPTA、各都道府県教育委員会とこれに追随する教員たち、さらには文化庁、文科省を敵に回すことになる。なんぼマンガで儲けていても、教科書から学校図書、児童図書、そして肝心のマンガ一般までボイコットされ、近隣書店で不買運動を食らえば、出版社としては、ひとたまりもない。売る自由があれば、買わない自由もあるのだ。そして、経済原則からして、後者の方が圧倒的に強い。アニメフェアをボイコットして、売ってやらない、などと言っても、転向する同業他社が喜ぶだけのこと。
 
 今日のマンガやアニメの出版状況からすれば、大きいとはいえ、総計でもたかだか5000億市場、2000億市場だ。麻生内閣でもくろまれた海外展開は、すでにほぼ完全に失敗。むしろ撤退傾向にある。一方、重要なのがキャラクター商品市場。これは、国内だけで1兆6000億。世界まで入れると、軽く2兆円を越える。もはや衰退しつつあるマンガやアニメをムリにエロで支えるより、世界に受け入れられる健全なイメージのキャラクターを売って儲けた方が、はるかに将来性がある。つまり、現代の出版社、とくに大手は、もはや印刷物の出版社(プレス)ではなく、キャラクター・ライセンスのパブリッシャー(公表者)へと変貌しつつある。ここでは、映画製作会社のジブリや玩具製作会社のバンダイ、サンリオ、ソニークリエイティヴなどが、もはや出版社と同列に並んでいる。
 
 この意味で、いかにいまの出版社の経営をマンガやアニメが支えていても、事業定義の変革において、マンガやアニメの部門は、もはや全体にとっての部分でしかない。おそらく、マンガやアニメの現場の編集者や製作者は、この巨大な事業変革の波を理解できていないのだろう。エロ表現で、マンガの販売数量を多少、増やしたところで、会社は、もはやそんなことを求めていない。亡き手塚治虫がかつて『アトム』で構想した、とてつもないサイドビジネスのモデルが、そのキャタピラーで業界をのしていく。ほっておけば、マンガも、アニメも、上層部がマーケティングに従ってでっちあげたキャラクターを動かすだけのショーウィンドウに成り下がってしまう。いや、マンガやアニメは、キャラやエロの魅力だけではない、人を感動させうる物語こそ作って売るのだ、という気概を現場が保てなければ、マンガはマンガではなくなり、アニメはアニメではなくなる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)   

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