純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

原発学者たちの良心を疑う


べつに原発反対派ではない。よけいな社会的パニックを引き起こすことを歓迎するものでもない。だが、国内で唯一、実情を国民に説明することのできる専門家たちが、この場に及んでまでも、マスコミの中で奇妙な原発擁護のレトリック(修辞)をこねくり回していることに対し、学者としての良心を疑う。

「「想定外」の大震災にもかかわらず、この程度で済んでいるのは、日本の原発が「優秀」だからだ」などと解説する学者は、まったくの茶番。福島原発に関して言えば、専門家であれば当然にあの問題、いや、一般のジャーナリストであっても、ちょっと調べればすぐに検索に引っかかる問題、すなわち、つい先日、二月二八日の時事通信等の報道を思い浮かべるはずだ。

すなわち、東京電力は、十数年に渡って福島原発で機器点検簿の改竄偽造を行ってきていた。その中に、まさに「非常用ディーゼル発電機」や「空調機」などが含まれていた。この問題に対し、東京電力は、これらは自主点検事項であり、安全上の問題はない、と弁明していた。今回の事故にこれらの機器が直接に関係あるにせよ無いにせよ、こんなずさんな連中を「優秀」なとどは絶対に言わない。

実際のところ、原子力に関して、研究者と事業者、そして、検査者が、まったく同一の学閥に属している。つまり、裁判官と被告と検察が、同じ村の先輩後輩のようなもの。厳しい精査や処分などできる体質にはない。このなあなあの関係に、年金問題と同様の官僚的ないいかげんさが加わって、社会学者ウェーバーの言う「訓練された無能」で、国民を煙に巻く。こういう仲間内の保身体質は、満州事変のきっかけとなった柳条湖事件(関東軍が自分で自分の満鉄を爆破し、それを自分で調べて、中国人が犯人だ、とした謀略)を思い出させる。第二次大戦末期、本土侵攻が迫っているのに、勝っている、勝っている、と言い続けた大本営発表がどれだけ被害を拡大させたのか、忘れたのか。

私たちが、以前、テレビ番組(「朝まで生テレビ!」)で原発問題を討論番組で採り上げようとしたとき、電力会社がテレビ局や新聞社の巨大安定スポンサーであり、その一切の批判がタブーである、という、とてつもなく大きな、見えない壁にぶつかった。それでも、賛否両論を公平に扱うことを条件に、数回に渡って番組とし、大きな反響を得た。だが、そのときも、じつは、裏では、いろいろあった。電力会社側の資料をきちんと調べてみると、出典不明のデータの孫引き、力積単位の話のすり替え、論理のごまかしや誇張がゾロゾロ。あのころから、あれらの資料は、およそまともな研究者や事業者の作るようなものではなかった。

電力会社が、いまでもまだテレビ局や新聞社をカネの力で抑えつけられると思っているのならば、大きな勘違いだ。だいいち、もう当分、電力会社は、マスコミのスポンサーになど、なりえないではないか。この震災で事態は一変した。これだけの国難となれば、現場のジャーナリストたちは、営業の連中が言う「会社の都合」など、もはや聞く耳は持たない。まず国民の味方だ。こういう日のために、ジャーナリズムがあったのだから。もはや世界中のジャーナリストたちも、日本の原発に注目している。この状況で、これまでのような隠蔽体質は通用しない。

「原子炉は止まっている」などと言うが、それは、まともに制御されている場合の話だろう。止まったはずの炉がなぜ冷えないのか。燃料のウランやプルトニウム自体が核分裂性の物質なのだから、炉心損傷時には、溶け落ちて集まった燃料において、再臨界、暴走、さらには原子炉本体の水蒸気爆発、放射性物質の一帯への撒き散らしの危険性さえもゼロではない。これらのことも、専門家なら、知らないはずがあるまい。

いまが大丈夫かどうか、など、だれも聞いてはいない。処理がうまくいった場合の、捕らぬ狸の話も、もう、うんざりだ。専門家なら、これからどうなるリスクがあるのか、東京電力とは距離を置いて、きちんと科学的シナリオ(一連の事件)のすべてを隠さずに客観的、批判的に説明しろ。危機管理は、最悪の状況に対して未然に備えるのが当然であり、どうするか、は、我々一人一人が決めることだ。おまえらではない。

いま、現場の作業員たちの命懸けの努力によって、時間的な猶予が作られているのであれば、我々に打てる対策の余地はある。この貴重な時間を研究者仲間の口先保身のためにムダに費やし、社会的な心理操作までかってにやるのであれば、それは、あきらかに御用学者の越権であり、人道的な犯罪だ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

日本中の大学がカンニングだらけなのでは?


携帯によるカンニングのウワサを、大学の教職員で聞いたことが無いなどという者はいまい。にもかかわらず、諸事情で見て見ぬふりをしてきた、というのが、実際ではないのか。それゆえ、いまどき、まともな大学、まともな教員なら、あんな百年一日の情報を問う問題ではなく、もっとまともな学問らしい問題の出し方を工夫するはずだ。
 
この手の学生の話をこれまで大学の教職員で知らなかったとすれば、よほど耄碌している。昨今の携帯電話なら、漢字や単語を調べるなど、あまりに容易だ。そうでなくても、ウェブにつながるのだから、ウィキベディアでもなんでも、簡単に見ることができる。やるやつがいないと思う方がおかしい。

ところが、試験のカンニングは、じつは、へたに摘発すると、その始末がものすごく面倒くさい。そもそも、学校たるもの、学生を信用しているのが大前提。「机間巡歩」して、試験監督が直接に「現認」しても、あくまで「推定無罪」だから、証拠を押さえなければならない。ところが、それが携帯電話となると、「プライヴァシー」がどうのこうまで絡んできて、試験監督がその場でそれを没収できるのか、「無罪証明」をさせるために、そのログの開示を要求できるのか、と、混ぜっ返す教員がかならずいる。それで、大学は、いきなり腰が引けてしまう。現に、ある大学では、学部長が証拠無しの摘発として試験監督の方を叱責して、学生に謝罪させ、カンニングを無かったことにしてしまった、なんていう、むちゃくちゃな話も流れている。

大学、とくに末端の地方私立大学では、もとより学生が足りない。カンニングでもなんでも、一人でも学生に入学してほしい、というのが本音だろう。そして、入学したら、へたに留年などさせず、身ぎれいなまま、どこでもいいから、とっとと就職させたい。こんな状態で、どうして本気でカンニングの摘発などできるだろうか。とにかく大学に来て、答案用紙になにか書いてくれれば、それでいい。一般に、全講義回数の三分の二の出席が受験資格だが、きっちり毎回、出席を採ると、試験前に出席不足でひっかかってしまう学生が続出してしまうので、出席そのものを採らない、という先生も少なくない。

親も親だ。自分の子が出席不足で留年したら、息子の話では、自分だけいつも名前が呼ばれなかった、と言っている、なんという差別だ、と怒鳴り込んできた、なんていうことが、どこかの大学であったそうだ。大学側もいちおう再確認するが、その学生の欠席の日は、全教員で一致。肝心の息子は、どこかへ雲隠れ。だいいちその親というのが、どこぞの県の教育関係者だったとか。

こんな話、しょせんこの業界の中での風のウワサにすぎないが、いかにもありそうなところが恐ろしい。だから、近年のまともな教員であれば、いまどき、出席も確実に証拠が残る方法を工夫しているし、試験でも携帯電話ごときでかんたんにカンニングできるような問題は出さない。カンニングをするやつが悪いに決まっているが、とっくに時代が変わっているのに、こんなにかんたんにカンニングができるようなことを、いまだに惰性でやっていた大学こそ、おおいに問題だ。

そのうえ、今回、カンニングそのもので受験生が逮捕されたわけではない。試験時間中の問題の流出を「偽計業務妨害」だとして、大学は外部の警察を「利用」して、労せずしてカンニングをした受験生を特定した。これも、この受験生と同種の、大学側のカンニングではないのだろうか。問題の流出に気づいたのも、大学自身ではなく、2日目に外部から電話で指摘されてから。前日にも、数学の問題が流出していたのだから、ちょっと自分で検索さえかけていれば、1日目の段階で、すぐに阻止することもできたはず。まして、他の大学は、まったく気づいていなかったらしい。しかし、試験問題の予備校との重複や出題のミスは、おうおうに起こりうることであるから、終了したのちにネットのモニタリングをしてウワサをフォローすることも、試験業務のうちではなかったのだろうか。

今回の受験生は、まぬけにも、だれでも見られる掲示板なんかに質問したから、すぐに発覚した。しかし、ちかごろは、卒論まで、代筆します、なんていう業社がいるくらいだから、ほかの学生、ほかの大学にも、携帯を使ったカンニングが無かったなどとは、容易には思えない。

だが、そもそも、いまどき、調べればすぐにわかる、人に聞けばすぐにわかる、などという「情報」は、もとより大学水準の「学問」とは関係があるまい。携帯ごときでは転送できないくらいの量の混乱錯綜した英文資料を渡して、その中から真実を読み取らせ、本人の国際的な見識を問う、とか、立方体と正十二面体でエレガントな問題を作らせる、とか、いくらでも問題そのものの工夫の余地がありうるのではないか。文科省がうるさいのかもしれないが、あの程度の百年一日のつまらん問題を出すような大学は、学生以前に、貴重な税金で運営する研究機関としてのセンスが疑われる。

大学水準の「学問」という高い壁を前にしては、教員も、学生も、なんの区別もありはしない。だれもがただ真摯に学ぶ者だ。大学人であれば、問う者もまた、その問い方で、つねに同時にみずからも問われていることに、気をつけなければなるまい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

半額だの無料だの最近はウソとバカばっか


/昨今はやりのタダ・ビジネスなどというものは、経済学的には、まったくの空理空論だ。そのツケの方が、はるかに大きい。ところが、バカな経営者は、自分自身でさえコストの見積もりを勘違いし、大勢の顧客まで巻き込んで自滅する。/


 こんなの、メディアリテラシー以前の問題だろう。企業が商売でやっている以上、そして、その円環の中でビジネスが行われている以上、半額だの、無料だの、ということがあるわけがない。
 
 昨年、『フリー』という本がたいそう売れたが、結局は、昔ながらの三つのモデルに還元される。一つは、三角サービス。獣医は犬を治療するが、カネは犬からではなく、犬の飼い主から得る。行為の依頼者と、行為の対象者がずれている。このために、一見、行為の対象者からすれば、タダであるかのように思われる。しかし、たとえば、視聴者にとってタダのテレビでも、実際は、番組スポンサーの商品の価格に広く薄くその費用が乗せられ、見てもいない番組の分まで、ごたまぜに払わさせられている。ほんとうは、実際に見た番組の視聴料だけを払った方が、はるかに安い。
 
 もう一つは、寄せ餌サービス。タダだ、半額だ、と、人を集めて、その中から客を釣る。羽布団や健康食品なんかでもよくあるインチキ手法だ。それが、最近は、ネットや携帯に出てきた。これも、タダの部分は、結局、後で高いカネを払わさせられるので、かえって高くつく。100円バーガーにつられて入ってきた客に、うまくセットメニューを売りつけられれば、原価率からしてボロ儲け。もちろん、デパ地下などであれば、味見だけして食い逃げ、という手もないではないが、携帯ゲームの場合、こいつらが、高いカネを払う連中の寄せ餌そのものとなるので、むしろタダで負け組のサクラを雇っているようなものだろう。
 
 三つ目は、投資償還後の開放。当初は有料だった道路も、その投資金額を回収した後はタダにしてもかまわない。著作権なども、その年限後は、パブリックドメインとして、コピーフリーとなる。しかし、近年は、著作権の年限切れ後も、商標権などの別の方法で妙な連中が私物化してしまうことが多く、簡単にはタダにはならない。まして、道路その他は維持更新に費用がかかり、タダになることなど、永遠の空理空論でしかない。
 
 結局、どこかにツケが回る。いや、それによって、客の数がまとまれば、その規模効果で、誰も損をしない、などという連中がいるが、それはウソだ。経験効果は、数量が倍になって3割のコストダウンがいいところ。それも、せいぜい大量生産による固定費の均等割にすぎない。だから、鶏肉ばかりの焼き鳥屋なら、正体不明の激安輸入食材の大量まとめ買いでコストダウンも可能だろうが、少量多品種の素材を要する高級レストランとなると、原価比率が高いので、規模効果はまったくない。それどころか、品質の良いものの数量を揃えようとすると、原価はむしろ爆発的に跳ね上がってしまう。

 たとえば、旬のアンティチョークや杏茸、聖護院胡瓜のような特殊なレギューム(野菜)を、同じ味、同じ鮮度、同じ大きさで百人分も揃えるとなれば、まずその何倍もの数量を、あちこちから無理をしてかき集め、業者頼みか自分自身の目で厳選し直すしかない。いや、無理をして数を優先すれば、結局、全体の質を落とし、店そのものの評判を落とすことになる。だから、まともなレストランや料亭、旅館で、割引クーポンなんかを使って妙な宣伝をして、大勢の一見客が一時に押しかけることを望むところなど絶対に無い。
 
 まして、一人一人に手作りの接客サービスを提供する業界は、もともと割引などできる余地がない。設備の稼働率を上げ、従業員をアルバイトに入れ替えてもサービスは変らない、などと経営者が思うのであれば、サービス業のセンスが無い。カランの前に並ばなければならないような温泉で、客がゆっくりできるわけがない。老舗ホテルなど、それが、いつものホテルであるのは、ホテルの顔とも言うべき、いつものホテルパーソンがそこにいて、出迎えてくれればこそだ。たしかにサービス業は、バブルの時期にはしゃぎすぎた。需要以上の拡張をして、稼働率を下げてしまった。しかし、だからといって、30枚の1万円札を、30分の1ずつずらして切って貼って、31枚にするようなやり方では、むしろリピーターはさらに減る。
 
 そして、それ以上に恐ろしいのは、口コミだ。たとえ一時一瞬でも手抜きをすれば、ネットにずっと掲載され続ける。掃除が行き届いていない、店員が横柄だ、パンフレットの写真と部屋や食事の内容が違う、等々。たまたま、などという言いわけは通用しない。とくにクリスマスや正月、結婚披露宴などのお祝い事では、小さなミスでさえ命取りになる。そうでなくても、まず安全や品質などの最低線を絶対確保するのは、カネを取るビジネスとして当然のことだ。
 
 そして、どんなに万全を期しても、トラブルは起きる。だが、その畏れこそが、経営者の仕事ではないのか。正月だからといって、連絡がつかない、などというのは、論外。発送して、お客様に届いたことを確認してなお、お客様がそれを開け、納得し、食べ切っていただけたはずの賞味期限の翌日までが、ずっと仕事だ。従業員はともかく、経営者は、戦々恐々として、ただひたすら何事もないことを祈って待つ。そして、いつ、どんなクレームがあっても、ただちに応対し、もしもそれが重大な安全上の問題であれば、他の購入者全員にただちに連絡をして、回収しなければならない。人の上に乗って高い報酬を得る、ということには、相応の責任がある。

 買う方も買う方だ。クーポンだかなんだか知らないが、半額だの、無料だのというようなものなら、それはジャンクか型落ち処分などのワケありに決まっている。うまく安く得することもあるが、ひどい目に遭うときもある。そして、確率論的に言えば、経済学として、最終的に値段相応で均衡する。すこしも得ではない。だから、お祝い事や旅行で、大失敗してケチをつけたくなければ、多少、高くても、きちんと信用のおける、長年の実績のあるところを使うべきだろう。そうでなければ、結局、もっと高くつくリスクを負う。
 
 商品の価格というのは、もともと品質保証や損害保険を含んでいる。人によっては、そういう抱き合わせはいらない、自分でフォローできる、ということもあり、格安は、そういう人のための特別な選択肢だ。ワケありのワケも理解できないのに、格安に飛びつけば、それこそ自分がいいカモにされるだけだ。
 
 いくら不景気でも、仕掛けるだの、打って出るだの、寝ぼけたことをいう暇があったら、まずきっちりと守りを固めた方がいい。安物買いの銭失いをしているような余裕は、経営者側にも、消費者側にも、もう無いはずだ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

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