純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

マンション・リスクと限界国家

/購入と賃貸、どっちが得か、というと、もっぱらローンと家賃の比較。今回のような所有リスクを考えていない。こんな信用ならない、人口減少の限界国家の中では、資産や地位を持つこと自体が、もはやリスク。いつでも海外脱出して食べていけるような「賃貸」的なヘッジが必要だ。/

 たしかに、都心で、ある程度の広さのある住居は魅力的だ。とはいえ、もちろん一戸建てというわけにもいくまい。となると、マンション。最近は、プール付きのスポーツジムはもちろん、便利なショッピングモールが隣接するような、大規模開発物件もある。


 しかし、今回の一件。残念ながら、どうにもならないのではないか。単純なミスですら、建物の基礎部分となると大きな問題なのに、どうも意図的な手抜きで、それがバレないように作為的なデータ改竄の隠蔽までやっている。規模が規模だけに、だれか一人がやって、他のだれも気づかなかった、などということがあろうはずもなく、組織的な、場合によってはトップ層も承知のことか。文字通り、地中の奥深く埋めてしまえば、だれも掘り返しはしない、と思ったのだろう。そして、ゴキブリのように、1匹見たら20匹を疑え、という方が実際に近い気がする。


 どうにもならない、というのは、改修の規模だけの問題ではない。所有権が大勢に分割されてしまっている以上、所有者たちの中での意見調整コストが莫大すぎる。それぞれに年齢や所得も異なり、家族構成も、学童や通勤の都合、ローンの支払形態も異なるだろう。いくら売り手側が、誠意を持って、などと言っても、そんなもの、買い手側の意見がまとまらないのでは、どうしていいか、決まりようがない。


 よく、購入と賃貸、どっちが得か、という話があるが、たいていはもっぱらローンと家賃の比較。今回のような所有リスクを考えていない。所有者は、他人に売却できないかぎり、当事者責任を負い続ける。それも、戸建てなら自分で交渉や決断もできるが、こういう広義の「共有」では、一人で勝手なこともできない。かといって、売却して手を引こうにも、すでにトラブルが発覚しているマンションの所有権など、好んで買う第三者がいるわけがない。


 すでにバブル期に建てられたリゾートマンションでは、相続などの結果、所有者が不明確になり、管理費滞納が蔓延し、水道や暖房、エレベーターなどの共有施設の保全改修すらままならないところが続出。都心の高級タワーマンションなどでも、外国人が投資のために買いあさっているものも多いそうだから、これから同じようなトラブルが多発して、設備の更新が必要となる築20年目あたりで急激に廃墟化するのかもしれない。


 有名企業のマンションだけではない。超巨大グループですら、事実上の粉飾決算。こんな信用ならない国でヘタに投資などできたものではない。にもかからず、いや、それだからこそ、近年は行政までもが、わけのわからない「共有投資」を強いる。年金なんて、その最たるもの。頼みもしないのに、将来のためにまとめて運用してやろう、なんて言って天引きして、実際は老人世代が原資を山分けにして食い潰してしまっている。政治家たちは、短命な任期中の人気しか考えず、地元ブランド創成だの、第三セクター公共施設だの、一億総活躍だの、およそ民間企業の水準にはるかに劣るドシロウト以下のデタラメのバラマキ。いずれその手を広げすぎたツケで、水道や道路などのような本来の生活基盤の方の保全改修が滞るのは、自明の理。


 共有はもちろん個人でも、この国の中で資産や地位を持つこと自体が、もはやリスク。人口減少というのが、ファンダメンタルの致命的なボディブローなのだから、まさにあのマンション同様、行政も企業も社会も、なにもかもが傾いていくことは必至。つまり、この日本そのものが、限界集落ならぬ「限界国家」へ突き進んでいる。このリスクをヘッジするには、「賃貸」的生活、つまり、できるだけ余計なものは持たず、なにごとも経常費用と割り切って即金支出で決済し、ヘタに立身出世して責任者になったりせず、むしろ、いつでも身ひとつで海外脱出しても生活が成り立つように、手に職を付け、語学に励んでおく。残念ながら、それくらいの対策しか思い浮かばない。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

ネット上のパクリの国際的著作権問題

/ネット上の著作権の剽窃に関する管轄国については、国際規定が無く、世界中の裁判所で総当たりになってしまう危険性さえもある。これまでの狭い村社会のなれ合いに染まり切ってしまっている日本の企業やアーティストは、剽窃を疑われることで、考えている以上の桁外れの訴訟の費用と手間、莫大な懲罰的賠償金と、過酷な刑事的厳重罰にさらされてしまうリスクをもっと自覚すべきだ。/

 たんなる素材の場合はさておく。というのも、観光地のスナップ写真などが、被写体そのもののデータ以上の何か(思想や感情)を表現する「著作物」がどうか、議論の余地があるから。(ただし、著作物でないデータも、知的財産権はある。)


 問題なのは、プロやセミプロの著作者の「著作物」をパクった場合。パクる、というのは、専門的に言えば「剽窃(ひょうせつ)」のことで、自分がその「著作物」の著作者であるかのようにふるまい、そのことで第三者から利得を得ること。つまり、「剽窃」は、元著作者からの著作物の窃盗であるだけでなく、著作者であるかのような詐称詐欺として第三者に対する犯罪でもある。(本来の作者を明示するなら、それは「引用」であり、良識の範囲内であれば問題にはならない。)


 そう、剽窃は、犯罪だ。民事事件だけでなく、刑事事件でもある。民事事件として莫大な懲罰的賠償金を課せられるだけでなく、刑事事件として然るべき刑罰に処せられることになる。日本の場合、いまだに前者の著作物の窃盗の面しか認識されていないために、刑事事件としても、元著作者からの親告を構成要件としているが、世界の潮流としては、「善意」(知らなかった、剽窃者を信じてしまった)の第三者が、さらに剽窃者の詐称に騙される人々を社会的に増やし、元著作者の損害を無限に拡大していってしまう危険性があるために、非親告の即時起訴化(だれでも告発でき、すぐに刑事事件に)の方向に向かっている。


 だが、これにインターネット、つまり、国際的な情報空間が絡むと、とても面倒なことになる。一般に事件は発生した国で争われる。しかし、ネットを通じて知りうる以上、「現地」がどこなのか、不明確なのだ。たとえばスペインに事務所があるフランス人著作者が著作物を米国のサイト(在米サーバー)にアップロードして、日本人がブラジルに旅行中に剽窃し、中国で公表した場合、裁判国がどこになるのか、どの国が管轄権を持つのか、現在の国際法体系では明確な規定が無い。法律家のコンセンサスも無い。おまけに著作権法が世界統一されていないために、どこの国で裁判をするかによって、原告被告に有利不利の差が大きく生じる。(概して、日本法がもっとも剽窃に緩く、大陸フランス法の系がもっとも知的財産権に厳しい。ときにはA国で裁判するが、法律はB国の体系を用いる、などという珍妙なこともある。)


 国によって著作権法そのものが異なる、ということからもわかるように、どの国で、どのような裁判をするか、によって、勝敗は大きく変わってくる。つまり、法律的に「剽窃」であるか否かは、法体系と裁判の進め方に相対的に依存する。結果は地震なみに予測困難、というのが、著作権法の現実。世界中に進出している企業のものであれば、すべての国で著作権裁判が総当たりになってしまう危険性すらある。だから、巻き込まれ、争うこと自体が、無謀だ。ここにおいては、事前にトラブルを予防することが最大最善の戦略であり、また、トラブルが生じたら、他国に飛び火しないよう早期和解を探るのが鉄則。しかし、それでも、知的財産権がらみの政治的な理由で、見せしめ的に刑事起訴されることもありうる。


 勝つにせよ、負けるにせよ、その裁判のために、弁護士との打ち合わせや、法廷資料作成のために、本来の創作時間をほとんどすべてを奪われるほど、アーティストにとって不愉快なものはないだろう。この意味で、よほどアグレッシヴな社会挑発的テーマの著作者でもない限り、著作権に抵触するかもしれないことに手を出す、それどころか、疑いをかけられうるようなこと自体が、あまりにハイリスクだと、よく自覚した方がよい。そして、万が一に備え、製作過程などの記録をきちんと残し、公明正大な独創性でこそ勝負すべきだろう。


 ましてクライアントは、この手の問題を、著作者同士の争いなどと、甘く考えないほうがいい。マイケル・ジャクソンでもなければ、訴訟を起こして被告個人から絞り取れる額は知れている。だが、企業も共犯となると、話は別。社内との個人的な縁故で特定の著作者を使っただけだとしても、剽窃があれば、企業本体が莫大な懲罰的賠償金を連帯して負うことになる。また、剽窃の刑事犯を私念で擁護している、その著作者詐称を支援している、となると、コンプライアンスやコーポレートガバナンスとしても許されるところではなく、上場していれば株価が暴落し、ブランド価値が棄損、株主訴訟も免れないところとなる。企業のトップの責務として、このような問題は、広告代理店だの、宣伝部だの任せにせず、総務部(法務部、経営企画室)でもつねにダブルチェックしている必要があるだろう。


 さらにまた、公的なコンペティションにおいて剽窃の刑事犯が受賞してしまうことは、賞の権威を著しく棄損し、行政当局もまた節穴審査員たちの任命責任を負うこととなる。それゆえ、応募者の資格として、受賞歴などよりも、剽窃の前科こそが問われるべきであり、また、受賞後においても、自分の名前で公表した作品(名義貸しもまた責任を免れまい)において剽窃事件などを起こして受賞の名誉を汚した場合には、当該の受賞作品そのものが剽窃であるかどうかを問わず、受賞そのものを遡って取り消す、記録から抹消する、という懲罰的処分があってしかるべきだろう。(実際、タレントなどは、CM契約などで不祥事解除事項はもちろん、高額賠償責任まで明記されている。)これくらい厳しい姿勢で臨むのでなければ、日本の知的財産権全般の自己管理能力そのものまで世界に疑われることになってしまう。


 これまで日本は、こと著作権に関して、狭い村社会の中のなあなあでやってきた。しかし、諸外国や関連他分野の専門家を交えず、国内の著作者仲間だけで互いに順送りで賞を出し合っている、などというのは、誰の目にもまったくの茶番だ。また、国内法、せいぜい米国法しか理解していない著作権の専門弁護士の助言も、広い多様な世界では、まったく役に立たない。いくら商標をウィーン図形分類などでチェックしたとしても、菊の御紋章や葬儀の鯨幕などのように、「商標」ですらない、文化的禁忌の図柄は世界中にいくらでもある。ネットを通じ、日本の企業や日本のアーティストが世界と関わらざるをえない以上、世界の厳しさと向き合い、みずから律し、その独創性を世界とともに真剣に切磋琢磨していく姿勢が、いま日本に問われている。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

ネットもテレビと同じ凋落の道

/顧客志向に迎合したポータルの「おすすめ」は、たしかに当座のPVを増やす。だが、売れてもいない話を売ろうとする、雛壇芸人たちのような、強引な上から目線の押しつけの情報の混ぜ込みが常態化すると、ある日突然、顧客を失う。/

 ネット、というよりポータルサイトだ。老舗のYahoo! JAPAN(ソフトバンク系)、goo(NTT系)、MSN(マイクロソフト直営)、Infoseek(楽天直営)、excite(伊藤忠系)、そしてlivedoor(韓国ネイバー系)。その他、それぞれのプロバイダも、BBS(電子掲示板)以来のポータルサイトを持っている。問題は、これらのポータルが、早くも凋落していってしまっていること。


 ただの検索ポータルのころは、メカニカルに、キーワード関連の外部サイトが表示されるだけだった。しかし、複数の検索ポータル間の争いが生じ、シェアと広告のためにPV(ページヴュー、来訪者)を稼ごうと、直リンクの「おすすめ」が前面に押し出されることになった。ここにおいては、それぞれのポータルの現有顧客の志向により迎合していった方がPVが稼げる。


 しかし、「おすすめ」の前面化は、同時にそこに、それぞれのポータルの編集方針が介入することとなる。そして、結晶化、つまり、編集方針と顧客志向のプラスフィードバックが働く。さらには、ポータルの経営側の都合で、顧客の志向とは異なる意図的な扇動、情報の歪曲を含むようになる。また、編集部として、実際に「数字」を持っている特定サイトや特定ブロガーをさらに前面に押し出したり、実質的に編集部がプロダクション化してしまい、まったく未知数の縁故者を「有名人」と称し、勝手にプロモーションしたり、ということが起こる。


 だが、これは、テレビが凋落したのと同じ道。売れているものを、それどころか売れてもいないものを、さらに強引に売り出そうとする情報操作は、結晶化した同じ顧客たちのリピートによって、それどころか、その頻度昂進で、視聴率を一時的に引き上げる。局の都合、番組の縁故のゴリ押し、はやってもいないものをはやっていると言いふらす情報歪曲も、局や番組そのものが数字を持っている場合、たしかにある程度までは可能だ。だが、これらの手法は、その背後で、新規の顧客の途絶えさせ、従来の顧客を離反させてしまう。このことことを見失っていると、ある日突然、視聴率が急落する。


 かつて私もテレビ局に関わらせてもらい、多くのことを教わった。新陳代謝こそ、テレビの要諦。ピークを過ぎたタレントはすぐに切れ、番組を心中させるな。新人はどれにも肩入れするな、視聴者の選択を待て。ところが、その後、あちこちの大手タレント事務所が直接番組制作に乗り出し、自分のところや縁故のところの「大御所」や「注目の新人」のタレントたちをゴリ押しして、このテレビの「旬」の常識をねじ曲げた。その結果、テレビというメディアそのものが、すっかりダメになった。人が寄りつかなくなった。


 すでにネットポータルの多くも、スマホシフトに乗り損ねている。スマホの小さな画面に、ポータルの経営側や編集部の「おすすめ」ばかりを上に押し出し、テレビの雛壇芸人のように並べても、顧客をそそらない。長文も、写真も、小さなスマホ向きの素材ではない。スマホは、もともと個人の電話機と手帳がくっついたもの。あくまでパーソナルメディア。その小さな画面において、そのリンクは、ひたすら時間軸に沿ってのみ、単線的に奥へ延びている。だから、ゲームやLINE、ピン芸人動画がはやる。


 広い画面上に大量の「おすすめ」を静止平面的に分散配置するような概念レイアウト(画面デザインでなく、情報観そのもの)でのポータル経営は、もはや完全に時代から遅れてしまっている。単線時間軸的リンク構造、ポータルプッシュではなく顧客プル(オンデマンド)、雛壇型ではなく狭い画面でのピン芸人型の固定メディア。現状は、youtubeなど、むしろ昔の単純メカニカルな検索ポータルに戻った観がある。時間軸リンクとしての「チャンネル」化は、いまだいろいろな個人がそこで模索中というところ。しかし、今後、顧客からより高度の質が求められ、メディアとしてマスの影響力をそこに企業が発揮しようとするとき、そこにどんな戦略が成り立つのか。Facebookのいいねボタン、LINEスタンプやtwitterの#タグなど、顧客サイト埋め込まれ型のヴァイラルは、その一つの方向だろうが、これもまた、いまだうまく軌道に乗っているとは言いがたい。


 いずれにせよ、ゴリ押し当然のような、古いテレビやネットの「上から目線」のメディア経営感覚を引きずっていては対応できない。発酵し続けている新しい酒には、もっと柔軟な新しい革袋こそが必要だ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『夢見る幽霊:オバカオバケたちのドタバタ本格密室ミステリ』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)
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