純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

4メートルの巨大シン・ゴジラを作ってみた

/昨今、あちこち観光商業化して大規模になってしまったまつりが目につくが、静岡県浜松市北区三ケ日は、あいかわらずの小さな町ながら、ありがたい歴史と伝統のある神社、浜名惣社神明宮があり、八月の第一週末に、町内6区が主体になって、なかなかの夏まつりを行っている。/


 夏だ、まつりだ、ことしも暑い! というわけで、作ってみた。なんと、4メートル! 着ぐるみなんかより、はるかにでかいぞ。一階の屋根より上に、よゆうで首が出るくらいの巨大さだ。


 といっても、私が作ったわけじゃない。うちのスタジオ(作業場?)で、三ケ日の鬼蜻蜓連(おにやんまれん、元若衆の集まり)が、ものすごい手間と時間をかけて、夜な夜な発泡スチロールから自分たちで削り出した。やっと今日、組みあがった。明日、これをみんなで担いで(引いて?)、町内を練り歩く。両目もフラッシュで光るぞ。うまくすれば、口から煙も吐く。なんでゴジラなんだか、わけがわからんが、とにかくそれがまつりというものだ。


 昨今、あちこち観光商業化して大規模になってしまったまつりが目につく。いったい誰のまつりなんだか。さいわい三ケ日は、ありがたーい濱名惣社神明宮(はまなそうしゃしんめいぐう)という、延喜式神明帳(901〜922)にも出てくるすごい歴史と伝統のある神社がある。昔、教科書に出ていた三ケ日原人の話は、2000年になって旧石器時代ではなく縄文時代だろう、ということでケチがついたが、それでも縄文の昔から人が住むのに良いところだったのはまちがいない。しかし、近年は、頭の上に第二東名へのジャンクションがあるくらい。だが、いい具合に、さびれすぎもせず、すごい発展もせず、町内の住人でおいしい三ケ日ミカンを食いつぶし、そこそこ長生き元気で健康にやっている。


 そんなこんなで、この町は、昔ながらのまつりが狭い町内6区で、うまく続いている。そんなもん、さして観光客が来るわけでなし、とにかく自分たちで自分たちの町の歴史と伝統のある神社を祭る。毎年、8月の第一週末が、夏まつりだ。


 金曜の夜が花火迎え。お盆の精霊迎えとくっついてしまったらしい。そして、土曜が手踊り、宵には子供たちを乗せた太鼓台の行列。神社についたら、境内で豪快な手筒、大筒の花火。最後の日曜が、グループ対抗の山車神輿。そして、夜には浜名湖畔で大花火大会。これには、けっこう外の人も見物に集まるが、あくまですべて、町内のおまつり。


 なんにしても、山車神輿が、腕の見せ所。それぞれがおたがいに秘密で、その年のはやりものを作る。それで、今年は、シン・ゴジラ。みんなの票で決まる。他の連中に勝ったからといって、どうということはないが、負けるのは悔しい。去年、鬼蜻蜓連は『進撃の巨人』の巨人だったが、年寄りに、なにそれ、気持ち悪いな、で、おしまい。それで、ゴジラなら、年寄りも、子供たちも、まあ見りゃわかるだろ、という戦略だとか。


 著作権どうこう、うるさいことを言ってくるやつがいるかもしれないが、あくまで町内の顔の知れた仲間内の私的な楽しみ。これで商売するわけじゃない。祭りが終わったら、夏の終わりくらいまでは町内の会館の駐車場のところに飾っておくが、たぶん、そのあと、ぶっ壊してしまう。もったいないが、こんなばかでかいの、いつまでも駐車場に置いておけるわけがない。ひょっとすると、来年の山車の素材に使いまわされるかも。


 いまの世知辛い世の中では、こんなカネにもならないことに一生懸命になって、と思われるかもしれない。だが、努力と才能は、無駄遣いをすればするほど、利子がついて戻ってくる。それが神様の御利益(ごりやく)。一年に一度、近所の連中がみんなで力を合わせて一生懸命になる。ふだん仕事で忙しく、生活の時間もバラバラでも、まつりのときには、みな顔を出し、それぞれの近況だの、あれこれの昔話だの、楽しく情報交換。もちろん、町内でなにかあったときには、顔が知れていれば応援もしやすい。消防団から災害の備えまで、すべておまつりのおかげ。神様のおかげ。お参りして感謝するのは当然。


 さて、他の連中は、明日、どんなものを作ってくるやら。でも、今年は、このシン・ゴジラが一番な気がする。いやいや、他にもっとすごいのがあるかも。いずれにせよ、おまつりが終わっても、夏の終わりくらいまでは、町内それぞれの地区に、自慢気に、ばかな力作の山車神輿を飾っているので、近くに来ることがあったら、ぜひ見に来てほしい。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

マイナス金利の行きつくところ

/消費税8%は、貯金の余裕のない世帯にとって、生涯賃金総資産が9年で半減するほどのマイナス金利を食らっているのと同じ。上層や企業からも貯金や預金を吐き出させるためには、消費税を超えるところまでマイナス金利(貨幣資産課税)を上げなければならない。しかし、必要も見込も無いのに消費や投資を強いられ、貯金もできないとなると、あとは脱経済生活を目指すしかあるまい。/


 マイナス金利の政策としての意義はさておき、マイナス金利が妥当とされてしまう経済状況は、どこへ向かっているのか。


 通常、金利はプラスだ。カネは使ってこそ財が得られる。そして、いま使いたい人の方が多いから、自分は使わないで人に貸してくれる人に御礼、つまり金利が付く。これに対して、マイナス金利ということは、いま使いたくない人の方が多く、人から借りてまで使ってくれる者の方に御礼が付く。


 この御礼、つまり金利は、いま自分が使えば、それくらいの利潤があってしかるべき、という損得ぎりぎりの数値まで上がって均衡する。たとえば、バブルのときのように、いま早く投資しておけば、これくらいはだれでも当然に儲かるはず、というぎりぎりのところまで金利は上昇する。これが逆にマイナス金利だと、いま使えば、これくらいの損はやむをえない、と市場がみなしている、ということだ。


 金利計算では「72の法則」が便利。年利x倍増年数=72。10年で倍にするには、年利7.2%の複利運用、ということになる。実際、バブルのころは、これくらいだった。一方、サラ金の上限18%だと、4年で借金が倍になる。さて、マイナス金利の場合でも、この計算は成り立つ。マイナス7.2%だと、10年で半減。


 マイナス金利導入で騒いでいるが、じつはすでに消費税がマイナス金利の同類。使わなければ、10万円は10万円。しかし、10万円を使うと、消費税8%だから、8000円の「罰金」を食らう。通常なら、加熱しすぎた消費を抑制するブレーキとして消費税を使う。だが、支出が最低限の生活必需品ばかりで、この消費全般に恒常的にかかってきている、ということは、収入の全額を支出して消費税を食らっている、貯金の余裕も無く、なにかしらのローンを負っている中下層世帯は、実質的には複利で、9年で生涯賃金総資産が半減していっているのと同じ。上層世帯や企業も、ちょっとやそっとマイナス金利のアクセルを踏んででもカネを使わないのは、フローの支出で消費税の罰金を食らうより、多少のマイナス金利で引かれても、元がストックとして残る貯金や預金の方がまだましだから。鞭と鞭で、マイナス金利(貨幣資産課税)が消費税より大きくなったとき、ようやく、どのみち損なら、損の小さい方、つまり、貯金や預金より消費や投資、ということになる。


 しかし、貯金もできない、となると、生活保護受給者と同様、ヘタに稼ぐだけバカバカしい。カネは、ババ。必要以上に稼がない、持たない、残さない、ということに。いや、現物資産、金や不動産なら、という連中もいる。だが、金なんて、もっとも個人で使用価値が無い。まして不動産など、通貨がバカになって、流動性、換金性を失えば、それこそ権利登記上の空理空論。戦後の焼け跡のように実効支配するやつが出てきてしまう。


 実際、ほんの二百年前まで、経済なんて、そんなものだった。19世紀半ばに大量生産の工業資本主義が出てきて、生産規模を早く拡大したやつがウイナーテイクオールということになったからこそ、金融資本主義が庶民の小銭までかき集めて采配を握った。しかし、現在のように、何をやってもダメ、たいていはマイナス金利相当に損をするだろう、というほど、市場の平準的な見込が冷え込んでしまっていると、どうにもならない。量産効果に代わる投資根拠が無いのだ。


 取引自体、戦後の焼け跡のように、直接に普遍的な使用価値のあるもの、米やイモの物々交換が主流に戻るだろう。金や権利証より今日の飯。だから、いまやるなら、開墾か。幕末から明治初期、幕府・政府が米本位から金本位に切り替えるまで、かなり手間取ったように、米やイモの物々交換の管理監督体制ができるまでには、相当の時間がかかる。しかし、苦労して開墾したところで、どこぞの原子力発電所が放射能でも撒き散らせば、一巻の終わり。自己管理できないリスクが大きすぎる。


 今の時代、なるようにしかならない、ヘタに動けば、動いただけ、消費税その他の罰を食らう。明るい見込も立たないのに、あえてリスクを背負うことは無い。なにもしない、というのが合理的な最善の経済選択。中世や近世が驚異の安定的停滞であったように、人間はリスクを取って未来に投資するものだ、などという前提は、リスクを超えるチャンスがあった20世紀のみの妄想。なのに、いまだにその古い妄想を盲信し、消費税だ、マイナス金利だ、と、必要も見込も無いのに消費や投資へカネを吐き出させようとすれば、いよいよ末期の息の根まで吐き出させるだけ。


ここまで各国政府が新時代、ポスト資本主義に無策無能となると、その悪影響をできるだけ回避すべく、庭を耕して体を動かし、釣りや野草摘みを楽しみ、御近所さんと物々交換をして、縁側でネコを撫でながら、旧友と将棋でも指して暮らす、「豊かな無職」の脱経済生活を目指すしかあるまい。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソ ン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

友人や先輩、先生はよく選ぼう

/いまさら、学校が悪い、と言ったところで、取返しがつかない。だからこそ、友人をよく選び、良い先輩、良い先生を見つけ、指導を仰ぎ、なんでも相談して、本当に困ったときには本気で助けてもらおう。そのためにも、嫌な連中の推薦になど頼らず、良い友人、良い先輩、良い先生の方から自分を見出してもらえるように、まず自分自身が自力でがんばろう。/


 こういう事件があると、学校が悪い、ということにするのが一番かんたん。万引をしたのか、同姓の別人と間違えられたのか、ガラスを割っただけなのか、よくわからないが、だれにせよ、この学校には、万引事件を起こすような学生がいる、という点は事実のようだ。


 ずいぶん前、同業者の知人(法学部教授)から、夜中に突然、相談の電話があった。自分のところの学生が警察に拘引され、大騒ぎになっている、と。強姦事件の現行犯で、現場で逮捕された。だが、実際に強姦をやらかしたのは、他大学の連中。彼のところの学生は、連中の知人で、逮捕のときは店の外にいた。しかし、警察としては、その学生も共犯者で、見張りをしながら、順番待ちをしていた、とみなされた。もちろん、本人は、店の中のことは、自分は関係ない、と言っている。だが、被害者からすれば、彼もまた悪仲間で、完全な強姦犯の一味。刑事、民事で面倒な裁判になるだろうが、結論が出るまで、そうとうに時間がかかる。それまで、大学としてその学生をどうしたらいいか。


 そんなこと聞かれても、法学でもわからんことが、哲学なんかにわかるものか。せいぜい言えるのは、そんな連中と関わっているから、面倒に巻き込まれる、くらいか。麻薬だの、賭博だの、不倫だの、賄賂だの、近頃、どうなっているのやら。有名なスポーツ選手やタレント、政治家が、ヤクザやチンピラ、どうみても怪しい男や女と写っている写真がゴロゴロ出てくる。やったか、やらないか、真相なんか、当事者でもないし、警察でも、文春でもないのだから、わかるわけがない。だが、写真が合成でない以上、付き合いがあったことは事実だろう。実際にやろうと、やるまいと、そんな連中と付き合っているというだけで、やっぱりロクなモンじゃないよな、と思う。


 顔が広い、付き合いがいい、人脈を持っている、というと、あたかも良いことのようだが、『論語』に孔子いわく、皆に愛される者より、善人に愛され、悪人に嫌われる者が勝る、と。来る者、拒まず、去る者、追わず、なんて、やっていると、ほかで排除された妙な連中ばかりが寄ってくる。そして、悪貨は良貨を駆逐する。妙な連中に取り巻かれて悦に入っている者の周囲からは、潮が引くようにまともな連中は離れていく。そして、朱に交われば赤くなる。この言葉も、まず良い意味では使われまい。


 春から生活が変わる、という人も多いだろう。だが、最初が肝心。そこでしくじると、ヘタをすれば一生が闇。だが逆に、一生に二度とない貴重なチャンスともなる。よくよく自分を振り返り、自分もああなりたいと思うような仲間たちの中に入れてもらって、学ばせてもらえば、知らなかった世界への扉も開ける。とくに先輩や先生は、よく選ぼう。数年でも、先輩はだてに先に生まれて、長く生きてきているわけではない。まして、先生は、数多くの学生たちを見てきている。


 私も、学校では相性の悪い先生方も少なくなった。進路指導で散々に言っていたのに全国模試で三位だったとたんに手の平を返してきた先生もいた。その一方、知らない間に私の絵をユネスコに送って賞を取らせてくれた先生、他のクラスの担任だったのに、私の夏休みの自由研究を見て、科学コンテストに出させてくれた先生もいた。


 さて、かの事件だが、ろくな学校でないのは確かだし、おまけに不運と不幸が重なって、結末には同情を禁じ得ない。だが、世の中は理不尽だ。XXが悪い、などと後から言ったところで、だれも悔い改めたりしないし、同じようなことは、かならずどこかでまた繰り返される。残念ながら、人生にはこういう致命的な誤解もあるのだ。だからこそ、事前予防と攻勢準備が肝心。学校や友人はよく選ぼう。そして、担任であろうとなかろうと、上司であろうとなかろうと、自分が心から信頼できる良い先生、良い先輩を見つけて、指導を仰ぎ、なんでも相談して、本当に困ったときには本気で助けてもらおう。そのためにも、けっして嫌な連中の推薦になど頼らず、良い友人、良い先輩、良い先生の方から自分を見出してもらえるように、まず自分自身が自力でがんばろう。これは、人ごとではない。君の問題だ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)

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