純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2010年11月

著作権保護における技術屋・法律屋・お役人の暴走


/技術屋や法律屋、お役人がいくら著作権保護で走り回っても、それによる利益の増加は、彼らの活動そのもので消えてしまい、創作の現場が潤うことがない。それどころか、それで利用者が敬遠するようになれば、文化そのものが潰えてしまう。/


 コンテンツビジネスは、掛け算商売なので、当たると儲けが大きい。その儲けのひとしずくたりともムダにすまい、と、近年、各所で猛烈な著作権闘争が繰り広げられている。いや、それなら、まだいい。問題は、著作権闘争が起きないようにする予防措置が暴走し、コンテンツビジネスそのものを窒息させつつある、ということだ。
 
 もちろん、著作権者の利益を実際に侵害する連中もおり、彼らに対して策を講じるのは当然だろう。しかし、予防措置や見なし課金は、いかに政治的に「合法化」しても、倫理的に問題がある。たとえば、米国ソニーは、自社CDをコピーから守る名目で、2005年、除去不能なスパイウェアをかってに利用者たちのパソコンに潜り込ませ、CDドライブへのすべてのアクセスを常駐監視し、社会問題となった。また、日本は、著作権法第三十条の私的利用の複製の容認に対し、第2項を追加し、私的録音録画補償金をデジタル機器に課すことを定めた。しかし、これらの補償金条項を著作権法の中に記すのは、もともと法律論的に筋が悪い。まして、このカネを、実際の著作権者ではなく、文化庁長官の指定管理団体(私的録画補償金管理協会など)が請求できる法体系的根拠も不明だ。
 
 このように、技術屋だの、法律屋だの、お役人だのが著作権を守ると言って走り回っているのだが、彼らの誰一人、もともと著作権者ではない。文化庁長官にしても、著作権者たちから委任されたわけでもないのに、なんで彼らの受くべき補償金を徴収する代理の管理団体をかってに指定できるのか。技術屋や法律屋、お役人の著作権保護の活動によって利用者から巻き上げた利益は、創作の現場ではなく、彼らの著作権保護の活動のための費用として、連中の手もとで消えてしまう。だから、いくら連中が著作権を保護しても、結局、創作の現場は、すこしも潤わない。一方、連中の著作権保護の仕事は、自己目的化して膨れ上がり続ける。著作権法は、本来、創作活動をする人々の保護するためにあるにもかかわらず、これでは、著作権の保護活動をする連中の利権のためにあるかのようだ。
 
 つまり、著作権保護が、実際の創作の現場を抜きに暴走している。連中は、著作権侵害は、年々、悪質になっている、と言う。これを防ぐために、もっと技術と法律と管理団体が必要だ、と言う。しかし、ほんとうにそうなのか。昨今、映画のDVDが安く買えるのだから、テレビで映画を録るのなんか面倒くさい、という層も増えてきている。それどころか、録画はもちろん、DVDさえ買わなくても、もっと安いオンデマンドが充実すれば、その方が便利で始末もいい、という人々は潜在的にかなり多い。


 実際のところ、まともな作品は、映画館上映と一年後のテレビ放送、初回DVD販売で、予定のリクープ(資金回収)を終えており、以後はもともと余禄であって、水道料金並みの値下げも可能だ。どんなに儲かっても、どのみち現場に追加でギャラが払われるわけでもない。制作会社としては、その他のハズレ作の分まで損失を埋めないと、と主張するだろうが、だが、そんなハズレ作のツケを、いつまでも過去のヒット作に抱き合わせて利用者に回すのは、甘えだ。そんな調子だから、新作はダメ企画ばかりではないか。
 
 まあ、何を言っても、著作権保護という名目で食っている非創作的な寄生連中が、これほど増えてしまい、自分たちで自分たちに都合よく法律を作るのだから、もうだれも止めようがない。しかし、そんなややこしいなら、もう要らない、と利用者が言い始めている現実を直視しないと、文化そのものが連中の著作権保護活動によって潰えてしまう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

ネット通販が狂ってきている


/ネット通販は、家にいながらすぐに買い物ができるのが魅力だった。ところが、最近は在庫切れだらけ。それどころか、検索をかけると、関係ない商品ばかりが表示され、ようやく欲しかった商品を見つけても、また在庫切れのサイトに戻されてしまう。/


 ある商品をネット買おうと注文したところ、数日後になって在庫切れで店側から注文のキャンセル。それで別の店で、と思ったのだが、そこも同じ。そして、その次も。そんなこんなで、何件もはしごしているが、一ヶ月かかっても、いまだに手に入らない。ネット通販というのは、遠くの街まで行ってあちこちの店を探さずとも、家にいながらにして、注文すればすぐ届く、というのが魅力だったはずなのだが。店に電話すれば即答してもらえる在庫の有無も、ネット通販ではメールの返事が来るのに数日もかかる。
 
 ネット通販モール自体も、いまやむごいことになっている。キーワード検索をすると、いきなり数万件もひっかかってしまう。それでいて、その大半が、まったく関係のない商品だ。店側がとりあえず自分のサイトに客を呼び込もうと、関係のない商品にまで、検索の多いキーワードをつけてしまった結果だ。こんな調子だから、在庫有り、で絞り込んでも、みんな、有ります、有ります、とにかくうちのサイトを見て見てください、ということになってしまう。
 
 一般検索すると、もっとひどいことになる。欲しい商品を売っているサイトが、さらに膨大な数に出てくる。ところが、これのほとんどがアフィリエイトや、二次情報サイトで、結局、どこかのネット通販モール内のサイトに繋がっている。珍しい商品ほど、たった一つの店のたった一つのページに、とんでもない数のリンクが貼られている。だが、そのページは、すでに問い合わせて在庫切れだった店だ。
 
 何が問題か、というと、ネット通販をやっている店の大半がシロウト商売で、まともな在庫管理システムを持っていない、ということだ。大手の場合、POS(ポイントオブセールス)システムとネット通販が連動しており、店舗ででも、ネットででも、売れたらすぐに在庫管理と補充発注に反映される。ところが、ネット通販モールのニワカ商売の連中は、とりあえず店にあった商品の写真を次から次へアップロードしていくだけで、ほったらかし。おそらく店舗の方ですら、まともに棚卸しもしたことがないのではないか。
 
 それどころか、昔の秋葉原のパソコン屋のような無在庫商法も横行している。店と言っても、自宅のパソコンだけで、客の注文が来てから卸に商品の発注をかける。これだと、在庫を持たないから、運転資金も、店舗倉庫もいらない。そして、卸のカタログに出ている商品なら、なんでも、在庫有り、だ。だが、実際は、卸で品切れのこともある。それで、客からの注文に、卸に問い合わせて、在庫切れの返事を客まで戻すのに、数日もかかってしまう。つまり、通販の店そのものが、アフィリエイトや二次情報サイトと同じようなものでしかない。
 
 かつて日本の流通は、マーケティングミクス(品揃え)をするための中間流通業者がぐちゃぐちゃに多重介入していて、それでコスト高になっていることが問題となり、ネット時代になって米国式のダイレクト通販が一気に流行したのだ。ところが、いまや、こうしてまた、昔の中間流通業者の多重介入へと逆行し始めてしまっている。
 
 検索サイトの機能が向上したのだから、もはやアフィリエイトに小銭をキックバックするのは、まったくのムダ金、ムダ手間だ。メーカーや卸は、実体のないネット店舗の連中との取引を切り捨て、自己サイトのみで一元在庫管理にした方が、流通的にも、物流的にも、よほどコストダウンになり、また、客に対してもサービス向上となる。
 

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

民放ビジネスモデルの終焉


/民法連は、電機メーカーのCM飛ばしに圧力をかけるつもりだそうだが、すでに地上波よりもケーブルの方が優勢であり、電機メーカーはもちろん、番組制作会社、視聴者、そしてスポンサーも、後者に乗り換えようとしている。電機メーカーが地上波チューナーの販促を止めて困るのは、むしろ民法連の方ではないのか。/


 日本民間放送連盟(民放連)の広瀬道貞会長は11月19日の定例記者会見で、電機各社がテレビCMを自動的に飛ばす機器を販売していることについて「看過するつもりはない。メーカー側と厳しく折衝する」と述べたそうだが、視聴者の方が、CMを、さらには、地上波そのものをもはや「看過」しているのに、いったい何を勘違いしているのだろうか。
 
 高速道路ができれば、旧道のドライブインはさびれる。だからと言って、ドライブイン会の会長が、自動車メーカーに圧力をかけ、高速道路を走れないように自動車の速度性能を落とせ、などと言えば、何をとんちんかんな、ということになるだろう。
 
 電機メーカーからすれば、ごちゃごちゃ言うなら、テレビから地上波チューナーを外すぞ、ということになるだけだ。実際、ケーブル世帯からすれば、テレビの地上波チューナーなど、まったく使わない余計な機能であるにもかかわらず、一般に「抱き合わせ販売」されており、このことの方が独占禁止法に抵触する虞(おそれ)がある。現に、1992年の著作権法改正で導入された私的録音録画補償金制度に関して、パナソニックや東芝は、電子情報技術産業協会に従って、2009年から地上波チューナー外しという対抗策で、その支払いを拒否してしまっている。これらのメーカーは、すでにケーブルチューナー(STB、セットトップボックス)でシェアを拡大しており、落ち目の地上波の民放連などに義理立てして無理心中するより、ケーブルと次世代放送へビジネス展開する方が戦略的に得策だ、と考えている。
 
 デジタルか、アナログか、という以前に、地上波テレビ局は、マーケティングとして、この二十年の市場動向を読み間違え、経営的に失策を重ねてしまった。もともとテレビなどほとんど見ない新聞社からの天下りがテレビ局を経営することに無理があったのだろう。また、市場そのものが、ネットやケーブルの登場で激変してしまった。もはや10分ごとに2分ものCMが入るような番組フォーマットは、現代の視聴者の感性に適合していない。ザッピングでチャンネルを変え、それでもどこもCMばかりであるために、地上波からケーブルに切り替えていってしまう。いまだに地上波に残っている視聴者は、いまだにケーブルも導入しないような一般購買意欲の低い人々ばかりで、スポンサーとしても、地上波にCMを打つ魅力がもはやほとんどない。
 
 一方、ケーブル放送局は、視聴料を主たる収入源としている。番組の間にCMも入れているが、チャンネルごとの視聴者層がはっきりしており、視聴率の割にCM効果は高い。住友商事とKDDIによるJCOMグループの場合、2010年10月末で、ケーブル加入者は全国266万世帯。そのうえ、第二位のJCNグループも、じつは同じKDDI傘下にあり、すでに関東の過半数の55%の世帯に、このどちらかのケーブルが敷設されている。
 
 もちろん、ケーブルで地上波が再送信されている、ケーブルが敷設されていても接続はしていない世帯がある、など、複雑なところもある。しかし、いずれにせよ、地上波とケーブルがすでにメディアとして互角であり、もはや後者の方があきらかに優勢だ。地上波放送局の長年の高圧的な態度に痛めつけられてきた電機メーカーや番組制作会社がどちらにつくか、地上波テレビ局の独善的な番組作りに飽きてきた視聴者がどちらにつくか、社会状況をよく考え、発言は慎重にした方がよい。電機メーカーが売れない地上波チューナーを売るのを止めたら、地上波テレビ局は生きてはいけないのだから。
 

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

ケーブルやアナログはNHKに受信料を払う義務があるか


/NHKも、いまやコンテンツ競争に巻き込まれている。だが、NHKは、放送法に基づき、あくまで公衆向け無線通信の発達を目的とする存在であり、受信契約を転用して、コンテンツ課金をするのは、法的に無理がある。まして、アナログ停波で受信ができなくなった高齢弱者から受信料を詐取するようなことがあってはならない。/


 NHKのホームページの「よくいただく質問」に、「ケーブルテレビも受信料を払うの?」というのが出ている。NHKの答えは「お願いしています」。お願いする、というところが、ことの内情を暗に示している。つまり、「そうです」とは言えないのだ。
 
 そのせいか、「もっと詳しく」という説明も書かれているのだが、この屁理屈がひどい。日本には、『放送法』というものがあって、「放送」とは、第1章:総則の第2条1によれば、「公衆によつて直接受信されることを目的とする無線通信の送信」と定義されている。つまり、「無線通信の送信」であることが類としての大前提で、そのうえ、それは種差として「公衆によって直接受信されることを目的する」ものに限定される。で、同じ『放送法』の第2章:日本放送協会(NKKのこと)の第32条に「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。」と書かれている。これに対し、NHKの「もっと詳しく」は、「ここでは「直接受信」ではなく、単に「受信」と規定されています。したがって、「協会の放送を受信できる受信設備」とは、直接または間接(有線テレビ放送施設を介して受信する場合)を問わず、NHKが送信する放送番組を視聴できる受信設備のすべてをいうものです。」と言う。
 
 しかし、「ここでは」もなにも、総則第2条に「この法律及びこの法律に基づく命令の規定の解釈に関しては、次の定義に従うものとする。」と掲げられており、第32条に「直接受信」と書いあるかどうかを問わず、第2条1の定義が第32条にも及ぶのは、法律論として当然のことだ。したがって、第32条は、第2条1の「放送」の定義を代入すると、「公衆によって直接受信されることを目的する協会の無線通信を受信できる受信設備を設置した者」ということになり、協会の無線通信を受信できる、のでなければ、つまり、常識的な意味で、アンテナで放送を受信できるのでなければ、契約対象とはなりえない。
 
 わかりやすくいうと、日本で「放送法」は、あくまで公衆向け無線通信に関するものであって、NHKも、無線通信に関してしか権限がない。この法律が作られた当時(1950)からすれば、無線通信こそが絶対優位であり、まさか、ケーブルだの、インターネットだの、有線通信(有線再送信を含む)がこんなにも再普及して、公衆向け無線通信の放送局が有線とのコンテンツ競争に巻き込まれたりするとは、だれも予想もしていなかったのだ。メディアの種類がなんであれ、NHKが受信契約を転用してコンテンツ課金をしたい気持ちもわからないではないが、受信契約が放送法による規定である以上、それは無理だ。かといって、放送法を改正するとなると、NHKが中心となって一般放送事業者にまでむりに無線通信のデジタル化を強要してきた放送行政の信頼が根幹から崩れてしまう。
 
 アナログ停波した場合、アナログテレビも、もはや「協会の放送を受信することのできる受信設備」ではなくなる。もっとも、NHKは、契約者側からの異論もなく「お願い」に応じてもらえているなら、受信設備をもたない者が任意で受信契約をしてもかまわない、という立場を取るだろうが、これは、法律解釈上はともかく、著しく商道徳に反する。実際、その対象は、多くが高齢弱者だ。社会的に許されるような任意契約ではない。アナログ停波とともに、NHKは、その第7条の設立目的からして、全契約者について、きちんとデジタル放送が受信されうる状態にあるのかどうか、再チェックする必要があろう。
 

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

予算の取ったもん勝ちは不正の温床


/競争的予算集中配分とやらで、プロジェクトの仕分けが行われるが、こうなると、予算を取ること自体が自己目的化し、実績化して、成果よりもむしろ予算消化が業務の中心となってしまう。/


 この教授、たった一人で五年間に1億数千万円もの研究予算をみごとに使い切った。数百台ものノートパソコンを、全部、自宅に持ち帰って、電子レンジで加熱したり、冷蔵庫で冷凍したりして耐久性を調べ、その後、みな捨てた、と言う。ところが、製造番号を追跡したら、別の人たちがきちんとユーザー登録している。ようするに、こいつは、大学で買った大量のパソコンを、新古品として売っぱらい、まるまる公金を着服していただけ。
 
 その一方、ある大学のある研究室は、夜な夜な教授が院生や学生たちを引き連れ、街に繰り出しては、公園のゴミ箱からカップ酒のガラスビンを拾い集めている。予算が無くて、実験用のビーカーが買えないのだ。高額の大型実験機器を使わせてもらうために拠点大学を訪れ、若造どもに面と向かって嫌味を言われている哀れな地方教授もいる。
 
 どうしてこんな異常なことが起こっているか、というと、近年の競争的予算集中配分というやつだ。集中してしまうなら、配分ではなかろう、と思うのだが、ずるいやつは、いつもうまいことを言う。財政削減で総予算が厳しくなってきたために、研究を仕分けして、将来性のあるものだけに資金を集中させよう、と言うのだが、ようするに、特定の大学、特定の教授たちだけで予算を総取り山分けして、むしろ焼け太ろうという魂胆。その一方、その他の大学のふつうの教員は、日々の研究にも事欠くほど貧窮してしまった。
 
 もちろん、表向きは、研究者なら、だれでも申請できる。しかし、将来性を問うと言いながら、実際は実績重視ということで、結局は、大大学の老教授が億単位の法外な予算を分捕る。なにしろ、予算を認められることこそ、それ自体が、公的な審査による「実績」なのだ。とにかく多ければ多いほど、偉いことになっている。だから、それほどのカネが実際の研究に必要かどうかなど、問題ではない。そして、獲得実績があれば、次期もまたさらに大きな予算が分捕れる。官公庁の各種調査予算も、みなこんな感じだ。
 
 常識的に考えれば、しかし、それだけの予算に見合う成果を挙げなければ、次期には予算を打ち切られるのではないか、と思うだろう。ところが、予算を独り占めした時点で、競争相手はもはや根絶やし。そして、すでに予算獲得という「実績」も手に入れた。だから、成果など必要ない。むしろ、今期は予算不足で成果を出せなかったじゃないか、と逆ギレして、次期にはより多くの予算を要求すればいい。いや、これでいいのか。


背負い水という話がある。人間は、それぞれ、生まれながらに一生の間に飲める水の量が決まっており、それを飲みきったら命もおしまい、という。予算も、総額が見えるから使い切ろうなどするのであって、本当はいくらついているかわからない、いつ打ち止めになるか知れない、だが、うまく余らせれば来年度にキャリーオーバー、ということになれば、現場も、日々、もっとちびちびと節約して使うのではなかろうか。実際、内部留保の不正プール金となると、研究者や公務員というのは、驚くほど真剣に節約し、せっせとカネを溜め込む。手元流動性の確保こそ、経済学として合理的だからだ。
 
 なんにしても、人為的な予算の集中配分、などというのは、ろくなことにはならない。いっそ昔の村の頼母子講の方がずっとフェアだ。人間のやっていることは、それぞれに多種多様であり、世の中も、将来になにが起こるかなど、わかったものではない。だから、何が重要で、何が不要か、何が役に立ち、何が役に立たないか、など、そう簡単に独断で決めつけたりせず、なにごともバランスよく中庸を守っていることこそ、肝要だろう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

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