純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2011年08月

日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)01/17


『朝まで生テレビ!』(1992)の番組資料としてまとめられ、『週刊エコノミスト』2000号(1992)に論文として掲載されたもの。ヤクザや暴力団についての概要を知るための資料。17分割で再録。著作権は著者が保持。


* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
 
0 )はじめに
 
ヤクザを考察するとき、刺青や断指などのその特異な慣習に目を奪われがちである。しかし、それは、日本を日本人の眼鏡や会釈で判断するのと同様に、あまりに表面的な見方であろう。
 
ヤクザは、社会学的には〈アウトサイド〉の一種である。そして、彼らがアウトサイドであるということは、ヘーゲルの弁証法のように、彼らの本質が彼ら自身にはなく、ただインサイドにのみ依存している、ということを意味している。つまり、何がアウトサイドであるかは、何がインサイドであるか、によってのみ規定されている。したがって、ヤクザを考察するためには、社会の主流を考察することこそが必要なのである。
 
逆に言えば、何がインサイドであるかも、何がアウトサイドであるか、によって規定されている。それゆえ、社会経済が中央政府や大手企業によってのみ構成され機能していると考えることは、これもまた、あまり半面的な見方であろう。むしろ、社会経済は、一般大衆や流動組織そのものを実体とするものであり、その一般性や流動性を支えるものとして、アウトサイドは多大な機能を果たしている。したがって、社会経済構造は、アウトサイドを含む両面的なシステムとしてこそ考察されなけれなるまい。
 
しかし、大衆や組織の一般性や流動性は、理論的には、インサイドシステムに固定されることによって喪失されてしまう。これに対して、現実においてこの一般性や流動性を成り立たせているのは、社会経済システムの恒常的変化である。つまり、歴史において社会経済システムが恒常的に変化していくことによって、一般的で流動的な大衆や組織が疎外され排出されていくからであり、これが社会経済システムの骨格的なインサイドを支える実体的なアウトサイドとなっているのである。それゆえ、アウトサイドを考察するためには、そのアウトサイドを再生産していく社会経済システムの歴史的変遷の考察が不可欠となる。
 
もちろん、この論考の目的は、アウトサイドの歴史の考察ではない。しかし、以上のような理由から、社会経済システムの歴史の中にこそアウトサイドの本質的構造が明らかになると考えられる。それゆえ、まず近代日本の社会経済の歴史をアウトサイドを含めて考察し、その後に、そこに現れてきたアウトサイドの構造を考察することにしよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)02/17

* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
 
1)商業型ヤクザ組織の形成:中世~江戸
 
中世において寄合として町村の自治組織化が進んだ結果、その町村組織の外部に多くの漂泊民が発生した。この中には、古代の奴婢職人の流浪化した者に加えて、新たに中世に発生した逃散農民や遁世の宗教者・学芸者・山武士などをも含まれている。
 
そして、このような漂泊民の中に、信仰と芸能と商売を三位一体とする「山師(やし)」と呼ばれる人々が発生した。彼らは、山岳密教(神仏混合)や神仙道(道教)や浄土宗(時宗)などに帰依し、「庭場」と呼ばれる各地の寺社境内を訪ね歩き、修業から派生した火わたりや居合抜きやこま回しなどのさまざまな曲芸を交えて、薬品・薬味・植木・煙草・化粧品などの山草石木、櫛や財布や玩具などの多様な雑貨小間物をそれぞれに販売し、さらには、さまざまな辻治療を行って神仏の霊験を示し、また、さまざまな辻賭博を行って吉凶を占った。つまり、彼らは、寺社歴訪などで修業を重ねつつ、商品販売などで旅費を稼いだのであり、信仰と商売の二つの目的が両立していた。
 
このような山師は、江戸時代になると「的屋(てきや)」とも呼ばれた。この名称の語源はさだかではない。また、「やし」を「香具師」とも書くこともあるが、これは、彼らが香りの強い山草石木やそれに関連する小間物を中心に販売したことによる。また、彼ら自身も、祈祷のために香を焚いたと思われる。
 
彼らは、自由独立・相互扶助が原則であったが、取扱商品供給や販売方法伝授に関する流派家元制に由来してか、「一家」としての親方子方制も採られるようになっていた。これにつれて、一家の親方などが定住し、しだいにその一家が地元の寺社の「庭場」を支配するようにもなった。しかし、これはかならずしも排他的なものではなく、その定住一家以外の行商的屋も、一定の賃貸料を収めることによって、営業場所を割り当ててもらうことができた。というより、そもそもそれぞれの一家は、流派として取扱商品や販売方法が限定されており、それゆえ、多様な商品や販売を揃えるためには、多様な行商的屋を集めることが必要だったのである。ここにおいて、集客集店能力は、定住親方の人望と才覚にかかっていた。

的屋は、たしかに中世における芸能非人と源流を同じくするが、しかし、江戸時代において制度上は、生業を禁じられた非人ではなく、他の行商人と同様に町方身分に属し、商売を営んでいた。たとえば、江戸の場合、的屋は上野寛永寺所属の百姓とされ、この身分に基づいて各地での神社仏閣での営業許可および関所渡場での通行許可が与えられていた。また、的屋の中には、芸能を見世物として独立商品化する「乞胸(ごうむね)」と呼ばれる者も現れ、その営業は非人頭に支配されることとなったが、しかし、あくまで身分は町方のままであり、また、非人が投げ銭を受けたのに対し、乞胸は木戸銭を取ったという違いがあった。「ごうむね」というのは、もともとは「乞旨」、すなわち、寺社などの勧進(寄付募集)をする者であった。また、的屋の中には、代侍や代僧などの臨時労役に従事する「願人(がんじん)」と呼ばれる者もいた。また、後述のように、定住親方の中には地元有力者として人足置屋を兼ねる者もあったと思われる。
 
このように、的屋は、行商にしろ定住にしろ、乞食と違って、あくまで商売をするという形式を保っていた。しかし、それだけに、世間の側からすれば、任意に金をくれてやるだけの乞食よりも始末が悪かった。というのは、的屋の商売は、詐偽まがいのものも少なくなく、また、頼みもしないのに商品や護衛や祈祷や治療を押し売りし、金銭を奪い取るということもあったからである。この意味で、的屋は、世間的には、乞食の一種と見なされて蔑まれることもあった。
 

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)03/17

* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
 
2)労役型ヤクザ組織の形成:江戸時代
 
戦国時代が終わって幕藩体制が確立したとき、仕官からこぼれた浪人がおよそ50万人も出現した。彼らの中には農民や町人になった者もいたが、武士を最上とする身分制度の都合から、浪人のまま武芸や学芸その他の内職によって生計を立てる者もいた。中には、浮浪し、生活のために野武士として山賊化する者もあり、また、野武士や旗本奴からの防衛のために用心棒として町人や農民に雇われる者もあった。このような無宿浪人は、野武士となるのも用心棒となるのも待遇次第であった。また、この他にも、厳しい徴税や重なる飢饉による没落農民も、流民化することが多かった。
 
逆に、生業のある武士や町人や農民の側からも、固定化した社会制度や身分制度に反発する多くの逸脱者が発生した。彼らは、「男達(おとこだて)」、すなわち、自己顕示を目的とし、「傾き者(かぶきもの)」ないし「奴(やっこ)」と呼ばれた。しかし、彼らの行動指針は、当初は既存習慣への反発というネガティヴなものでしかなく、具体的には、異様で派手な衣裳をまとい、権力や社会に反抗し、限度なく遊興狼籍をはたらくという以上のものではなかった。
 
一方、町や村においては、工事、荷役、防火、自警、等、農工商以外の仕事も少なくなかった。とくに、街道沿いの宿場や港町においては、参勤交代のための道路整備や運搬補助の役務が課せられたが、種々の事情で充分な人数を出せないことも多かった。そこで、これらの役務に対しては、名主網元などの地元有力者が人足を調達するのが常態化していった。この地元有力者の中には、定住的屋の親方の一部も含まれていたと思われる。また、すでに行商的屋の中には、「願人」と呼ばれる商業をしない労役専門の流動民が出現していた。
 
地元有力者は、役務のための人足の募集と費用の調達のために非合法の賭博を利用し、宿場を訪れた旅人を参加させた。先述のように、賭博は、当時の人々にとってはたんなる娯楽ではなく、さまざまな吉凶を占う神事の一種であり、危険を伴う役務や旅行のさきゆきを知る上で重要な意味を持った。とくに傾き者にとって、賭博は喧嘩と並んで男の意地と見栄を表わす格好の自己顕示の場となり、彼らは、しだいに「博徒」と呼ばれるようになった。

このように賭博を核として、地元有力者の下に遍歴途中の行商的屋や定職のない無宿浪人、没落農民、二三男坊などの流動人口や過剰人口も世話になりに集ってきた。これに対して、地元有力者は、このような傾き者、行商的屋、無宿浪人、没落農民、二三男坊などの中から才覚のある者を選び、不意の労役に備えて常駐させておくようになった。つまり、地元有力者が人足置屋を兼ねるようになったのである。江戸では、このような人足置屋を「日傭座(ひようざ)」と呼んだが、今日の「ヤクザ」の語源も、人足置屋を意味する「役座」であろう。「役」は、常時業務の「番」に対して臨時業務を意味し、また、「座」は、常駐ないし組織を意味している。
 
このような常駐者に対しては地元有力者自身が身元保証人となった。したがって、有力者と常駐者の関係は、家族になぞらえて、一家の「親分」「子分」とされた。
 また、常駐者の内部や他の町村の有力者との間において「兄弟分」が形成され、仕事や人足をたがいに協力融通することもあった。
 
幕藩体制が朱子学を採り入れると、ヤクザもこれを通俗的に理解し、また、中国の侠客の伝統を模倣し、〈仁義〉を〈侠(きょう)〉すなわち人間性の本質(男気)と考え、この仁義の道を極めることを任ずる者として、みずから「極道」ないし「任侠(にんきょう)」を名乗ることになる。また、技芸伝授や商品分配に関する的屋の親方子方制、身分保証や賭博貸借に関する博徒の親分子分制が、朱子学の家族主義と混同し、道徳倫理感として、ヤクザ組織の結束を内面から強化させた。
 
また、ヤクザにおいては、傾き者のネガティヴな破壊過激主義と任侠道のポジティヴな保守純粋主義とが奇妙な結合をとげる。すなわち、ヤクザは、少なくとも建前として「堅気」に対しては迷惑をかけないが、仁義の道をを踏み外した「外道」に対しては、みずからが逸脱的存在でありながら、これに完膚なく制裁を加えるという、矛盾した存在となったのである。それゆえ、ヤクザ同士の抗争は、たがいに相手を外道として制裁を加えようとするために、熾烈なものとなった。また、「御上(おかみ)」すなわち体制の権力に対しても、それを「堅気」と評価するか「外道」と評価するかによって、帰順しようとする傾向と、反抗しようとする傾向とが微妙なバランスで共存することとなり、権力の手先となって民衆を抑圧する者もあれば、民衆の味方となって代官殺しや商家焼打をする者もあった。

ところで、固定的なヤクザ組織の成立が、行商的屋や無宿浪人や没落農民の持っていた流浪性を完全に消し去ってしまったわけではない。ひとつには、日本の職人や中国の侠客の伝統にならい、若衆が諸国行脚の修業旅行をしてくることがヤクザ社会において推奨された。そして、この修業旅行での功績こそ、傾き者としての積極的な男達の方法とされたのである。また、もうひとつには、組織間抗争や義賊的犯行によって、地元を離れて地方に隠れる必要がある場合があった。いずれの場合にも、このような「股旅者」を各地のヤクザ組織が支援し、また、利用した。すなわち、股旅者は、訪問先のヤクザの親分に客分の待遇で迎えられるが、滞在中はその親分のためにその子分以上に貢献することが義務けられていたのである。そして、ヤクザ組織は、このような股旅者を媒介に、さらに複雑な全国的ネットワークを形成していった。
 
江戸時代において、人足置屋の親分としては、権威をかさに着る旗本と対決した町奴(まちやっこ)の代表として、江戸の幡随院長兵衛(1622~57?)が有名である。また、江戸の新門辰五郎(1792~1875)は、鳶人足から成り上がって、町火消「を」組の組頭となり、人足置屋として浅草上野一帯の労務や土木を請け負い、同地域の的屋の信頼をも獲得したが、賭博を開くことはなかった。そして、彼はさらに将軍徳川慶喜の信頼をも獲得し、娘を将軍の妾とし、慶喜とともに京都で豪奢な生活を送り、維新の後も慶喜について水戸、静岡に移った。一方、群馬の博徒の国定忠治(1810~1850)は、伝説によって美化されているが、実際は強制賭博や潅漑工事によって悪どく稼いだだけであった。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)

日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)04/17

* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
 
3)壮士としてのヤクザ:幕末維新~憲法制定
 
幕末においては、政権そのものが流動状態に陥り、ヤクザも地元有力者として、攘夷派・開国派、また、佐幕派・尊皇派に分れて、それぞれの立場を支援することになった。もっとも、この選択は、かならずしも主義主張に基づくわけではなく、利益利権に基づく場合も多かったと思われる。また、もともと劣勢であった倒幕派の方も、士族取立などの約束を乱発して、ヤクザや郷士(武装農民)の取り込みを熱心に行った。幕末ヤクザとしては、先述の江戸の新門辰五郎の他、清水の次郎長こと山本長五郎(1820~1893)が有名であり、彼は開国尊皇派に組みして、同派のために東海道での便宜をはかった。
 
1868年に設立された明治政府は、徳川が薩長土肥に代わっただけの藩閥政治を行い、民衆の期待を裏切っただけではなく、特権剥奪や地租改正によって、士族や農民や旧特権被差別民の没落を促した。ヤクザも、負け組はもちろん、勝ち組も士族取立などの利益利権が実質上、空約束に終わったことなどに大きな不満を抱いていた。
 
西郷、板垣らは、このような国内の不満を外征によってそらすべく「征韓論」を主張したが、海外視察から帰国した岩倉、大久保、木戸、伊藤らが内治整備を理由に反対したため、政府から下野した。そして、征韓論派は不平士族らとともにあいついで《佐賀の乱》(74)、《敬神党(熊本)、秋月党(福岡)、萩の乱》(76)、《西南戦争》(77)を起こすことになる。しかし、これらの西日本の不平士族の反乱はことごとく失敗に終り、もはや武力政治の時代ではないことを一般の人々に強く認識させた。
 
一方、板垣らは、下野の直後から言論による自由民権運動を推進し、その組織を〈立志社〉(74)、〈愛国社〉(75)、〈国会期成同盟〉(81)へと発展させていった。これに応じて政府内部でも国会即時開設を主張する大隈らの一派が生じたが、伊藤らの薩長派は、《明治十四年政変》(81)でこの一派を追放し、十年後の国会開設を公約しつつも、目標とする国体を天皇中心の立憲君主制に定めることになった。そして、この国会開設を目標に、板垣らの〈自由党〉(81)、大隈らの〈立憲改進党〉(82)、政府派の〈立憲帝政党〉(82)などが結成された。また、福岡の不平士族の残党である頭山満(1855~1944)らも、81年、〈玄洋社〉を組織し、愛国自由民権運動を提唱した。
 
しかし、このころ、社会経済的には、反乱鎮圧や輸入超過のため、財政も貿易も悪化しており、これに対して、81年蔵相になった松方は、徹底した緊縮財政を採った。このため、不況はさらに深刻なものとなり、多くの民衆をさらに没落させた。これに対し、急進的な地方自由党員や地元有力者であるヤクザは、運動を組織先導し、82年から86年にかけて、岐阜、福島、高田、群馬、加波山、飯田、秩父、名古屋、大阪、静岡など、中部や東日本の各地で「激化諸事件」を蜂起させることになる。一方、政府は、これらの諸事件を鎮圧しつつ、内閣制度(85)、市町村制(88)、府県郡制(89)、そして、大日本帝国憲法(89)を整備し、天皇中心の国家体制を確立していった。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

日本経済と暴力団(『週刊エコノミスト』2000号(1992)から)05/17

* 以下は『週刊エコノミスト』1992年掲載当時のままの原稿の再録です。
 
4)社会からのヤクザの遊離:1880年代
 
的屋は、「露商」として、すでに1872年に太政官布告によって営業が許可されていたが、80年代になると、明治維新や松方不況による没落民衆の参入によって次第に増大し、さらに、日清日露戦争期の政治経済の都市集中によって急激に膨張し、東京の飯島源次郎らが的屋の中興の祖として活躍した。このため、たびたび政府規制が検討されるほどになり、これに対して、的屋は自治組織を形成し、自主管理を行うことになる。しかし、同時に、旧来の的屋の新参吸収や新興の的屋の垂直分化、そして、知事鑑札制の導入などによって、かつては互助的であった的屋組織が、しだいに地域の営業を全体的に支配するようになり、支配地域の出店露商から営業認容金を搾取するようになっていった。
 
80年代後半になってようやく政治が安定すると、日本は政府主導で急速に近代化が進展する。この近代化のための政府や民間の建設・運輸・港湾・炭坑・開拓などの事業において、大量の労働者が必要とされ、ここに明治維新や松方不況による没落民衆が流入していった。そして、旧来のヤクザの参入や労働者内部の垂直分化によって、労働者の事業請負自治機構として定住的屋的互助型の〈友子〉制、人足置屋的管理型の〈納屋〉制、専門職人的分業型の〈組〉制などが形成された。
 
しかし、89年の会計法改正による競争入札制の普及と90年の反動不況によって、郡小の労働者組織間の受注競争は激しさを増し、その結束と抗争を引き起した。もっとも、いずれもあまりに突然の近代的大型事業であるために、当時の前近代的組織では、実際にはどのみちどこも一社で事業全体を請け負う能力はなく、不明朗な業者間・政府間の談合・賄賂・手抜が横行することにもなった。また、このような労働者組織は、組織労働者に対して仕事や娯楽の調達斡旋・失業や労災の生活保障を行ったが、このために組織労働者の賃金の多くを中間で搾取したり、賭博で回収したりすることも多くなり、いずれもしだいに受注請負業者として専業化し、労働者から遊離していった。
 
ところで、ヤクザを含む壮士たちの愛国自由民権運動は、89年の憲法発布の後、目的を喪失して衰退していった。その一派の川上音次郎らは、以前より「オッペケペー節」によって愛国自由民権運動の民間普及に努力していたが、「壮士芝居」さらには「新派劇」として演劇性と通俗性を強めていった。その演劇は、旧派すなわち伝統的な歌舞伎と対称的に写実的であろうとしたものであり、小説や翻案にネタを採って、初期の政治劇、中期の犯罪劇、後期の家庭劇へと発展していったが、その社会的問題意識はしだいに薄弱になってしまった。


これとは逆に、当初は同様の愛国自由民権運動を提唱していたにすぎない頭山らの玄洋社は、86年の清国水兵による長崎強姦事件をきっかけに急速に過激な国権主義を強めていった。おりしも政府は、1854年以来の不平等条約改正を円滑に進めるため、鹿鳴館舞踏会などの極端な「欧化政策」を採っていた。これに対しては、「国粋主義」を提唱する三宅雪嶺(1860~1945)らの多くの文化人も厳しい批判を加えており、玄洋社も、大隈外相の外人判事採用という妥協的改正案に激怒して、89年、その爆殺を謀った。この暗殺は失敗したが、大隈も辞職することになった。一方、軍備拡張を主張する松方内閣に対しては、玄洋社は、92年、内相品川弥次郎の計画した選挙干渉に協力し、各地で急進的な自由党壮士と武力闘争を展開した。このようにして、玄洋社は、暴力的院外勢力としての「右翼」になっていったのである。そして、選挙後、自由党側も〈関東会〉などの暴力的院外勢力を組織した。



by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

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