純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2011年11月

『水戸黄門』を殺した悪人ども

/この12月で、国民的番組『水戸黄門』が終わる。この番組が人気だった頃、悪人もいたが、未来への希望があった。いまや、この番組の悪人たちそっくりの老人だらけ。連中は、この番組を見ることなどできまい。/


 1969年に始まり、79年2月の第9部最終回には43.7%という驚異的な視聴率を得ていた国民的番組が、今43部、2011年12月の最終回で打ち切りとなる。理由は、はっきりしている。月曜20時のゴールデンタイムにもかかわらず、率が10%も取れないのだ。そんなにつまらないのか。とんでもない。とくに今43部の脚本は、これまでのシリーズの中でもずばぬけて秀逸。子役から老人まで、キャスティングのバランスも悪くない。予算や時代の都合だろうが、昔に較べればたしかに郊外ロケや大人数の「スペクタクルシーン」や、チャンバラの「暴力シーン」は減った。だが、ドラマとしての人間の絡み合い、悪い奴らの巧妙なたくらみは、今という時代を絶妙に映し出している。
 
 『水戸黄門』は、もともと松下電器が全国各地の「ナショナルのお店」でテレビ販売のキャンペーンを張るためのファミリー時代劇だった。だから、歴史上の水戸光圀が行っていないところでも諸国漫遊し、御当地ものの名物名産を採り上げ、地元に根付く諸悪を祓い清めて歩いた。そして、『水戸黄門』と言えば、ずっと今日まで夕方の再放送の定番。夕餉の支度が始まる頃、陽が傾きかけた居間では、とりあえず『水戸黄門』が、今日もまた悪人たちを懲らしめたものだ。マンネリ、などと、けなすのは、もともと好きでもないやつのセリフだろう。毎度おなじみのニセ黄門の話でも、それぞれに趣向が異なり、他のを知っていればこそむしろ、へぇ、今度のニセ黄門は、こういう事情か、人生いろいろあるなぁ、と、三倍も楽しめた。
 
 『水戸黄門』が国民的な人気を博していたころ。それは、パソコン(1979年8月)や携帯電話(同年12月)が売り出される前、戦後復興から高度経済成長への粉骨砕身の国民の努力が、超小型テーププレイヤーのソニー・ウォークマン(同年7月)や、破格の47万円の軽自動車スズキ・アルト(同年5月)、大衆向けフルオートカメラのキャノン・オートボーイ(同年11月)に結実し、ようやく『めぞん一刻』(1980年)のような風呂無しアパートが終わろうとしていた時代。
 
 これほどまでに身を削って働いているのに、世の中には悪いやつらがいる。政治屋と商売人が結託して、悪事を働いている。それが許せなかった。しかし、その一方で、新時代の希望があった。それを見守り、励ます年長者たちがいた。水戸黄門は、そういう存在だった。だれもが悪を憎み、正直者が救われることを願った。まして年配者であれば、自分もまた、御老公のように慈悲深く、悪に対し毅然としてありたい、と思った。
 
 だが、バブルを経て、そのゴマカシとイカサマの後始末の結果、いまの老人たちは、どうだ? 誰も彼もがスネに傷を持つやつらばかりじゃないか。なんでそんなに大きな家に住んでいる? どうしてそんなゴルフだ旅行だと遊び歩いていられる? その資産はどうやって手にした? そのツケを誰に廻した? みんな、水戸黄門に成敗されるような悪人ばかり。おまえらのような老人は、悪人どもの所業が身につまされ、『水戸黄門』を見ることなど、とうていできまい。だから、番組の視聴率が落ちたのだ。
 
 数百年後までツケを残す新田の乱開発、勘定方への帳簿改竄の強請。『水戸黄門』が時代を映すとき、いまの日本は、後ろめたいやつらが多すぎる。若い頃に半端に赤に染まり、天皇陛下や都府県の知事ですら平然と足蹴にして、都合が悪くなれば、莫大な退職金を掴んでとんずら。こういうやつらが『水戸黄門』を殺した。
 

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

摂氏1085度:銅線が融けるとき


マイケル・ムーアの『華氏911』で、そのタイトルの元となった、古いブラッドベリのSF『華氏451』が世間にも知られるようになったが、肝心なところが誤解されている。ムーアは、アメリカの自由が燃やされてしまった日、という意味のようだが、ブラッドベリの『451』は、じつは、けっして政治的な検閲焚書や思想統制を扱った話ではない。それは、まさに本自体が自分で自然発火して消滅してしまう時代のことだ。ブラッドベリが恐れていたのは、ラジオやテレビなど直観的なメディアが人間の思考そのものを支配してしまうことであり、むしろ、まさにブッシュやムーアのように映像で一瞬にして人心を操作しようとする新時代のデマゴーグの到来だった。

マクルーハンの言うように、メディアこそが我々の思考を規定する。「情報」と言えば聞こえがいいが、その実体はセンセーショナルなキャッチコピーにスキャンダラスなヘッドライン、押しつけメールにカリスマツィッターと、脈絡のない断片の言葉ばかり。我々の頭は、もはや通俗スポーツ紙の見出しの切り抜きを集めたスクラップブックのようだ。そのうえ、人の話など聞かず、耳から口へと筋肉反射する。だが、とにかく言い散らして、周囲を圧倒した者が勝ち。だから、商品でも、映画でも、子供が口ずさむほど、大人でも夢に見るほど、意味もないフレーズを大量に繰り返し、人々の耳に流し込む。

こんな状態でも、かろうじてなんとかなっているのは、共通の文化基盤があるからこそ。しかし、それも、今後は危うい。かつて欧米は、キリスト教会や大学留学生の人脈によって、第三世界までを包み込む国際的ネットワークを持っていた。ポルポトやカダフィのような独裁者たちが外交の綱渡りで君臨できたのも、彼らに留学経験があり、欧米と隠喩的なメッセージをやりとりできたからだ。しかし、いま、世界各地で狼煙を上げているのは、まったくのドメスティックな連中。貿易交渉などで騒いでいるのも、同類だ。

ここでは、共通の文化基盤がない。それどころか、共通の基盤を築くこと自体が、利敵行為になるという猜疑心で凝り固まっている。だから、一方的に喚き散らし、示威行為だけで相手を威圧しようとする。まあ、明治維新以前のようなものだ、いずれボーダレスになるだろう、などという楽観論は、むしろいまや世界各地で崩れつつある。歴史を振り返れば、自由・平等・博愛を訴えたナポレオン戦争の後に帝国主義が現れ、独裁主義枢軸国に対する民主主義連合国の勝利の後に鉄のカーテンが敷かれた。それを、当時、誰が予想できただろうか。だが、歴史は、前へ進めば、かならず強烈な反動復古がやってくる。

いまはインターネットが、などと言っても、政治は、必要とあれば、ベルリンに物理的な壁を作って、乗り越える人間を射殺する。例の高速計算機にしても、通信を麻痺させるハッキングの強力な戦略兵器になりうる。もっとも、いまさら国民国家でもあるまい。ドメスティックな連中は、もっと狭い地域集団を作って立て籠もるだろうが、それよりも、世界を横断して、絶対的に越えがたい貧富の壁が築かれるだろう。

かくして、人類は、やがて、それぞれかってにスローガンだけ叫び散らすサルになる。だれも聞く耳は持つまい。いくら通信回線があっても、言葉が通じないのだ。さらには、誰が誰に叫んでいるのかすらわからない声だけが、メディアジャングルに響き渡ることになる。だいいち、この1600字程度の文章ですら、もう、わけわかんねぇよ、このクソおやじっ、と、言って済ます連中の方が、すでに現実に多いのだろうから。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

電子書籍そのものがすでに陳腐!


本を電子化するしないで大騒ぎ。紙で刷るのは資源のムダだ、いや出版社こそが本の質を作っている、うんぬん。しかし、電子化してまで、なんで本じゃなきゃいけないんだ?

人間の思考はメディアが規定する、と、マクルーハンは言う。人間の思考があって、それをメディアに載せているのではなく、人間は、メディアに合わせてしか思考できない。声の時代には歌を唱い、文字ができたら石に年号を刻む。本も、最初は木片か竹棒に、先生の御言葉を書き付けただけ。それが糸で綴じられ、紙で巻物になると、やたら行間や周辺に注釈を書き込みたがるようになる。印刷の初期には、「パンフレット」として独特の紋切り型の世界観が生まれて、それがフランス革命を引き起こし、その後は、パンフレットと定期郵便と自家製本の制度が一緒になって、やたら大河な「超長編小説(ロマン)」がはやった。

さて、現代の我々の思考は、二十世紀の初等教育とザラ紙雑誌でできている。喫茶店や理髪店で、雑誌の発行の順番にかかわらず回覧されるために、ここでは各回読み切りで主人公が初期状態に回帰する「小説(ノヴェル)」が発達。そして、これが、本屋の店頭で立ち読みし切れない3日分くらいごとに再編集され、「本」になった。かくして、いまや我々は、16ページ13折=208ページで完結する8章立て程度以上のことを、導入や基礎から応用や総括まで、順序立ててしか理解できない。そのくせ、それらをいくら読んでも、そのつど、初期状態にリセット。だから、永遠に次の「本」を買うことになる。

こんなものを電子化したところで、それは一時代前の図書館のマイクロフィルムのようなもの。たしかに電子書籍は、これまでに出版された「本」というレガシーを紙媒体より簡便に読み出すことができるだろう。だが、なんで電子時代になってまで、1ページの1行目から書かれている「本」を、その順番通りに読まなきゃいけないのか。「本」では、言葉が一列に並んでいる。前の部分を読んでいないと、後の部分は理解できない。後の部分は、前の部分を読んでいることを前提に書かれている。途中からの飛び入りは許さないようになっている。それでいて、結末は、結局、リセットだ。

しかし、これは文字を行に並べて、紙をページ順に綴じたからであって、どの部分も直接に表示できる電子媒体では、読む順の決定権は、もはや書く側には無い。実際、すでに電子辞書では、ABC順は意味をなさない。派生語や関連語へピョンピョン跳んで行く。ゲームともなれば、もっとインタラクティヴに、読者側が内容そのものにまで関与することができる。これでは、書く方も、読む側が、自分の書いた前の方を読んでいるはずだ、読んでいるべきだ、などと、かってに決めつけることができない。だいいち、書いた順番など、どこにも痕跡すら無くなってしまう。むしろ、自分が書いた他の部分など、読み手はどこもなにも読んでいない、という前提で、各部分を、どこから読まれてもいいように書かなければならない。

こうなると、「本」という単位に言葉を綴じて、ある書き手の世界をまとめることの意味自体が怪しくなる。辞書と同様、その読み手がその全部を読むなどということは、もはや期待しようもない。おもしろそうなところを摘み食いして読み捨てる。だが、それって、まさにこのネットのことじゃないか。ここでは、1行目から最終行まで全部を読まなければわからない「本」など、電子化しても、まるでCD化した古典芸能のように陳腐だ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  
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