純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2011年12月

迷うなら大学には行っておけ


近年、大学論がかまびすしいが、実際に大学の中にいる側からすると、いったいどこの大学の話をしているのか、不思議でしかたない。現在、日本の大学は約八百。まさに、やおよろず、で、研究主導から教育重視まで、金満強欲から質素倹約まで、裏口縁故から試験厳選まで、軟弱文系から偏屈理系まで、芸術感性系から体育筋肉系まで、驚くほど多種多様なものがひしめいている。潰れそうなところもあるが、それでもなお踏みとどまっているのは、それなりに手を講じて、他には無い特色を出しているから。

この状況で、むしろ素朴な大学論を語りたがる人たちの方が興味深い。大学関係者ならともかく、さて、彼らになんの関わりがあるのやら。大学が役に立たない、とか、アホ学校に補助金はムダだ、とか、言いたい放題。アホがアホだと自覚して勉強しようっていうんだったら、ムダだ、は、ないんじゃないの?

大学なんて、寺社教会と同じようなもの。もともと実際、歴史的にも寺社教会から大学が派生したんだし、御利益が無い、なんて思っている不心得者に、御利益なんかあるわけがない。賢人たちの知恵を尊び学んでこそ、そこから得られるものもあろうが、最初からくだらないと思って、学びもしないなら、行かないも同じ。初詣出でも、七五三でも、節目、節目にきちんと参拝して、みずから気を引き締めてこそ、御利益ともなる。

つまり、大学が役に立つか立たないかは、本人次第。二十歳にもなって、勉強しなさい、でもあるまい。きちんと役立てている人もいるわけだし、自分が役に立てられなかったからといってムダと言い切るのは、自分のバカを晒すようなもの。それなら、有限の貴重な公共電波にのべつ繋げっぱなしの携帯ゲームだの、食糧危機・エネルギー危機の時代に喰い切れないほど喰い散らかす居酒屋だのの方が、ずっと世の中の時間と資源のムダな気がするが、人の生き方はそれぞれ。人が好きでやってることに口を出すもんじゃない。

いまの日本で、高卒でも仕事が引く手あまた、というのならともかく、家でプーのヒッキーになるくらいなら、どうせヒマなんだし、大学でも行こうか、というのは、合理的な選択だと思う。社会経験を得てから大学で勉強する、というのも悪くはないが、車の免許と同じで、若いうちの方が周囲に面倒が少ないのも事実。そりゃ授業料も安くはないが、暇つぶしに毎日、パチンコなんかしているのに較べれば、はるかに安い。たとえ教員がダメダメだったとしても、同年代の友だちと出会う場としては、夜の繁華街よりはまし。

大学を貶すやつらは、ひょっとして、自分より年下の若い連中相手に偉そうに先輩づらしたいだけなんじゃないだろうか。そんな若年寄みたいなみっともないマネは、やめておけよ。いかにも、ふだん、まともに若い連中にかまってもらえていないみたいじゃないか。連中には、連中の未来があるんだし、彼らが自分で大学に行こうと思うんだったら、ヘタにケチをつけても、よけい嫌われるだけだぞ。

もちろん、大学に行かない、というのも、ひとつの生き方。けれど、行くも、行かないも、ヒネたおっさんたち、おばさんたちの言になんか左右されてどうする? 勉強するか、しないかなんて、自分で決めることだ。そして、どの道へ進むにせよ、自分で道を決めた以上、自分でそこから役立つものを学び取るべきものだ。

大学なんて寺社教会と同じ。迷ったら、そして幸いにも行かれるのなら、まあ、試しに行っておけ。嫌ならいつでも辞められる。知らずに拗ねて貶すのは、惨めなだけだぞ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

失われたものの意味


今年を表すなら、むしろ「失」の一字だろう。喪失、そして、失敗、失望、失墜。去年は有ったものが、いまはもう無い。

ものごとの意味は、それを失って初めてわかる。それが有るうちは当たり前のようにしか思えないのだ。そして、ものごとの意味とは、それが有ることと無いことのの差にほかならない。だから、今にして思えば、以前から、もしそれが無かったら、と想像することで、それが有ることの意味も、もっとよく知ることができたはずだ、と後悔する。

想像はまた、あの人がいたら、あれがまだ有ったなら、と、かなわぬ願いばかりを心に巡らせる。帰っては来ぬ人、壊れて失われたもの。年の瀬に忘年会などと言っても、それを忘れられようか。いや、忘れてはならないのだ。あなたが忘れれば、その人がいたことの証拠、それが有ったことの記憶すら、消えてしまう。

世間は、この一大事にも、きずな、だ、がんばれ、だ、と、浮かれ騒いだ。そこになんの薄ら寒さも感じずにいられた者は、幸いだ。以前と同じに過ごすことこそ弔いなのだ、などと言って、一時しのぎのお祭りをしてみたところで、気づいてみれば、やはり目の前にはもう無い。どんな言葉も、どんな施しも、けしてその埋め合わせになりはしない。そのこともわからぬ連中は、やがて興も冷め、別の熱狂へと移っていった。だが、大切な、かけがえのないものを失った者は、がらんとした部屋で夜の時計の秒針が響くたびに、失ったもの、失ったときの大きさを思い出さずにはいられまい。

ともに泣く以上のことが、この世の誰にできようか。仏話が伝えるに、死んでしまった幼子を抱えた女が仏陀のもとに駆け込んで来て半狂乱で叫んだ、あなたに本当に法力があるのなら、この子を生き返らせてよ! 仏陀は静かに女の手を握って言った、わかった、やってみよう、しかし、それにはケシの実がいる、一人の死者も出したことの無い家のケシの実だ、と。女は、すぐさま走って出て行くと、村中の家々を必死に訪ね歩いた。だが、そんな家はどこにも無かった。 

人は、生まれたときからパラシュートも無しに飛行機から飛び降りたようなもの。だれもが、いずれ地面に激突して死ぬ。いや、自分は生きている、自分で飛んでいる、などと言ってみたところで、せいぜい浮雲に乗って、空に命を長らえているにすぎない。だから、ほんの一時、風を失っただけで、一瞬にして世を去ることになる。

運不運、早い遅いを言い出せば、キリが無い。だが、たとえ失われたものでも、それが最初から無かったならどうか。どうせ不幸な目に遭うのなら、そんな人は最初から生まれて来なかった方がよかった、とでも言うのか。どのみち、ものは失われ、ひとは死ぬ。送る側も、送られる側も、ほんの後先のことにすぎぬ。この広い天地に機縁を得て出会い、ともに過ごすことができただけでも、どれほどありがたいことか。たとえ去っていったとしても、どれほどの思いを与えてくれたことか。

だが、それは、いま出会うひと、いまここにあるものについても同じこと。いずれはかならず失われる。そして、また同じ後悔を繰り返すのか。あの去っていったひと、壊れていったものが命がけで教えてくれたことが、まだわからないのか。かなわぬ願いに執着し、それで、いまをないがしろにするのなら、また同じ過ちを犯すことになる。いずれ、なにもかもが失われる。だから、もうこれ以上、後悔も新たに残してはなるまい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  

沖縄には独立していただいてはどうか?


テレビに映る沖縄の県知事室には、漢字だらけの屏風が見える。これは、もともと首里城の正殿前にあった鐘の銘。なにが書いてあるか、というと、琉球国は、南海の地の利、半島の人の利を得て、中国や日本と「唇歯輔車(しんしほしゃ、対等の相互依存、出『春秋左氏伝』)」の関係にある、という話。今の時代に、こんなものを一地方自治体の長の部屋に置き、わざわざやってきた中央政府の来客との面談にさえ用いる、とは、なかなか不遜な威嚇挑発。それがわからぬほど学のない大臣ばかりなのが、幸いなのかどうか。

それにしても、次から次に変な大臣、変な官僚が乗り込み、勝手なこと、失礼なことを言い散らし、沖縄の人々の気持ちを逆なでにしてばかりいるのを見聞きするにつけ、たんなる本土の一庶民としてさえ、まことに恥ずかしく、心苦しい。

だが、あの屏風を見るにつけ、先に福島で某大臣が県知事に「上下関係を重んじろ」など言ったとか言わなかったとかいうバカな話とはレベルが違う面倒な問題であることが、よくわかる。内閣総理大臣に任命された政府の国務大臣と、選挙による地方自治体の首長である県知事となら、まあ、行政管轄範囲の違いだが、沖縄、いや、琉球国の場合、いまだに日本とは、支配/被支配の関係にあるらしい。

歴史的経緯を振り返ってみよう。1609年、突然に薩摩藩が琉球国に攻め入って、その従属国とした。だが、この時点でも、従属しているとはいえ、ひとつの別の国だ。実際、1854年の黒船来航でも、米国は日本とは別に琉球国と修好条約を締結している。ところが、明治政府は、かってに琉球国を鹿児島県の一部とし、一時的には琉球藩を復活させるも、1874年の台湾出兵に勝って中国に日本の琉球国の領有を認めさせ、1879年の琉球処分で沖縄県にして、中央で任命した県令を派遣することにしてしまった。こりゃ、どう見たって「侵略」でゲソっ。そして、沖縄が日本の最前線として戦争でひどい目に遭った後、むしろ米国は、琉球国を日本とは別の存在として認め、軍政下ながらも琉球政府を創らせた。ところが、1972年、日本は米国から3億2000万ドルで琉球国を買い、その政府を潰して、またも沖縄県として日本の領土に組み入れてしまった。

つまり、日本は、「琉球処分」と「沖縄返還」と二度も琉球国を「強姦」し、「妾」の立場に貶めたことになる。南洋の漁場だとか、貿易の利権だとか、沖縄がおいしいのもわかるが、いまどき、米中両大国との談合や、こういう損得勘定で、かってに小国の侵略支配を続けるのは、国際社会の道義に反するんじゃなイカ? こんなことやっているから、周辺の国々から、いまだに、日本がまた攻めて来るかもしらん、なんて、邪推される。

というわけで、沖縄の人々の不満も、溜まりに溜まってものすごいようだから、日本は、これまでの非礼の数々を詫びて、もとどおりちゃんと独立していただいてはどうなのだろう? 米軍の基地のこと等々は、琉球国の方で直接に米国と話して、好きに決められればよろしかろう。防衛も、経済も、日本は与り知らぬこと。中国や半島、台湾との外交も、ぜんぶ御自分でどうぞ。むしろ莫大な財貨を落とす米軍の基地などについては、前の大阪府知事の言うように、関空の方でも、より有利な条件で御誘致させていただき、今後は国際社会の商売敵としてフェアに競い合せていただきたい。

震災と放射能で、もう日本には、沖縄の面倒な「支配」を続ける余裕など無い。なんなら、ついでに蝦夷国にも独立していただいてもかまわない、とも思うのだが。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)  
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