純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2013年01月

体罰もごほうびも同じこと

/体罰と体楽は表裏一体。体罰を禁じても、体楽がインセンティヴなら、その他の不祥事までは無くならない。本来のスポーツは、損得に振り回されない強い心を磨き、その生き方を貫けるだけの強い体を養うためのものではなかったのだろうか。/

 体罰、って、そりゃ、上のやつらの当たり散らしのことだろ。問題外だ。だが、昨今の体育会の世界って、体罰を止めたところで、そのインセンティヴは、あいかわらず、試合に勝ったら百万円、年俸1億、ハワイ旅行、みたいな、言わば「体楽」なんじゃないのか。そういうフィジカルな賞罰的世界観に留まるかぎり、結局は、体育バカ、つまり、体は強いが、心は弱いやつらを量産するだけ。自分より下のやつを殴る、女を見ればやっちまう、カネはいくらでもガメる、って、人間としてあまりに弱すぎる。

 武道を道と言うのは、それが生き方の問題だからだ。武術そのものは、あくまでその生き方を貫くための手段にすぎない。人格陶冶(とうや)は、心を強くすることこそが目的で、心が強くいられるように体を鍛える。むしろ、損得だの、賞罰だのにかんたんに心を振り回されないためにこそ、体を鍛える。それは、世界のスポーツマンシップでも同じこと。だから、エリートや将校クラスを養成する学校ほど、スポーツを重視する。

 ところが、オリンピックの国策奨励だ、プロスポーツのショービジネスだ、と、この百年で、めちゃくちゃにおかしくなった。体はしまっているのに、脳みそがデレデレの連中ばかりになった。新聞やニュースの中にまでスポーツが入り込み、雑誌から広告まで、一大業界になった。だが、もともとスポーツを新聞が採り上げるようになったのは、埋草記事と販売促進のため。試合をやればかならずどちらかが勝ってかならず記事にできるし、選手の出身地、チームの所属地で売り上げがあがるから。社会的に見れば、なんの生産性もない。それどころか、政治や経済で騒がぬように、庶民の目を眩ますサーカスだ。

 ほんとうのスポーツって、そんなものか。ファイトマネーなんて日当ほどにもならないのに、日夜、ボクシングジムに通って自分を鍛えている人。夜明けとともに白い息を吐きながら無人の街を走って行く人。世間が居酒屋で飲んだくれてグチを垂れている夕べに、無言でトレーニングマシンと向き合い、静寂のプールを泳ぎ渡る人。貴重な休日、知らない相手と集まって、日が暮れるまで親しげにボールを追いかける人。損得だ、賞罰だ、などと言っていたら、こんなことはやってはいられまい。

 どうも協会、というより「業界」の指導者層こそが、世間一般の本来のスポーツから遊離し、必要のない過剰な「体楽」で、せっかくの逸材たちを間違った方向にねじ曲げてはいないか。そして、その「体楽」は、根のところにおいて体罰と表裏一体だ。いったい何のためのスポーツなのか。それを見失って、体罰だけを禁じても、根本は変わらず、不祥事は止むまい。だが、今、何のためのスポーツか、と聞いたら、連中の間では、上から下まで、カネ儲け、と、素直に答えてしまうバカが続出しそうでこわい。

 行政も同じこと。業界のカネ儲けに手を貸しすぎだ。あれはただの見世物ビジネスで、国民一般の健康や福利とは関係がない。以前はプロ選手たちが損得抜きで頻繁に子供たちの指導に当たり、地道に後進の育成に努めた。もちろんいまでもよくやっている分野もあるが、聞いたこともない連中、やっても、これ見よがしにマスコミを呼んで法外なギャラを取る連中も少なくない。そういうやつらは、子供たちにとって害悪にしかなるまい。

 今日も、世界中でほんもののスポーツに励んでいる人たちがいる。そこでは、体罰も体楽も必要ない。スポーツそのものが心の楽しみで、自分をうまく律せられないことそのものが心の罰。それは、自分自身の心を鍛えるためのスポーツだ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
 生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
 ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp

若者が多い会社に就職してはいけない

/若手ばかりで活気のある会社は、最初の十年で市場飽和に達し、新規採用がまったくできなくなる。そこから新規事業だの、国際展開だのをやるくらいなら、若手だけの別会社の方が効率がいい。いまの見た目に騙されず、十年後の社内を想像してみろ。/

 近年、ITやファッション、飲食関係で、やたら若い従業員に溢れている会社が少なくない。職場の雰囲気も明るい。社屋も新しい。なにより社内に活気がある。年寄りだらけで半ば死に体のオンボロ会社などより、たしかに魅力的だ。だが、見た目に騙されるな。先を考えろ。十年後を想像してみろ。

 かつて会社というのは、十年、二十年という年月をかけて成長したものだ。新入社員が管理職になるころ、ようやく部下もピラミッド型に増えて、本社ビルを建てられる、というのが穏当な道だった。だが、今は違う。たった五年で事業が市場飽和に達してしまう。十年目には、もはや悪あがき状態。だから、すぐにブラックになってしまう。

 ようするに、いまは起業してすぐに爆発的に成長する。このため、最初の十年に大量の若手人材を採ってしまう。ところが、市場が無限にあるわけではない。全国展開したところで打ち止めだから、もう新規採用はできない。にもかかわらず、ただ年功だけのベースアップで人件費が経営を圧迫する。そのうえ、ありあまる従業員が、それぞれに思いつきで余計なことばかりやって、会社を内側から消耗する。だから、絞り込み、つまりリストラの首切りを始めないとならない。そうでなくても、会社自体、にっちもさっちも行かず、仕事はどんどんきつくなる。それで嫌なら辞めてくれた方がいいのだ。

 そもそも、こういう企業の経営者は、商売は上手でも、経営の才能が無い。目先の戦術はうまいが、長期の戦略が無い。いや、確信犯かもしれない。とりあえず雇うなら、中高年よりも、若い連中の方が安いし、従順だ。上がおらず、すぐに店長だ、課長だ、と昇格できるから、バカみたいに喜んで働いてくれる。十年たって、三〇代になったら終わり、とも知らないで。

 当初の事業で全国市場が飽和してしまうと、今度は、新規事業だ、国際展開だ、と夢物語を言うしかない。だが、三〇も過ぎた古顔の連中が、もはや素直に言うことを聞くものか。そもそも、彼らにはもはやそんな柔軟性もない。新規事業だの、国際展開だのをやるなら、まったく新規に新卒を採った方が給与も安いし、対応力もある。ようするに、三〇代以上の人材という「不良債務」を抱えている会社をなんとかするより、まったく新たに別会社を建ててしまった方が速い。へたに過去がない方が、資金も集まりやすい。

 実際、バブル以降の新卒人気企業の末路は、あまりにみじめなものばかりだ。残っているのは、一握り。それらだって、どれもこれも、新規事業だ、国際展開だ、と、できもしないウソで社内をごまかしている。だが、なにより、経営者本人の年齢がネックになってしまっている。いくら実績があっても、過去は未来に通用しない。世間は、頭打ちの大企業より、経営者も若手気鋭の新企業の方に期待する。

 若手だらけの活気ある会社を見たら、その十年後を想像してみるがいい。その従業員たちが、みんな三〇代、四〇代になって、そこに活気があると思うのか。会社がさらに巨大化して、いまいる大量の連中が中年化しても、彼らがいないと同じくらいに思えるほど、さらに多くの若者を新規に採って希釈し続けることができると思うのか。

 妙な話だが、もうダメだ、という老齢会社の方が、若手を大切にしてくれる。上はとっくに自信を失っているから、威張ったりせず、キミの意見も聞いてくれる。どのみち、みんな上はいなくなる。一気に若返って、新しいことにもチャレンジできるぞ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
 生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
 ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp

若者たちの貴重な時間を奪うな

/古い連中が基本と思うことは、古いパラダイムの中での話。新しいパラダイムにおいては、そんなものは根本から不要だったりする。しかし、下位互換性がないために、古い連中は、そのことを理解することさえできない。/

 学生たちからグチを聞くことが多い。映像関係で言えば、たとえばいまだに16ミリフィルムだの、6ミリテープだのの編集をやらせる。着ぐるみと火薬を使った特撮だの、ラテックスの特殊メイクだのを実習だと言う。できる学生ほど、いまだにこんなバカなことやっているんですよ、先生、と泣きついてくる。教えている連中からすれば、これこそ基本だ、と思っているらしい。だが、とっくの昔に世界の映像製作のパラダイムが変わってしまっているのだ。根本思想が異なるのだから、何が基本か、からして違っている。

 フィルムやテープは、コマが時間順序で並んでいる線形だ。しかし、現在、マルチチャンネルのレイヤーを使ったデジタルのノンリニア編集の方が主軸になっている。個々のカットやサウンドは、部品のサンプルにすぎない。これらが何層にも重なって、それぞれにフィルターやエフェクターが掛けられ、見えるもの、聞こえるものを形作っている。線形で、すぐ隣に繫ぐだけの編集ではなく、立体的に上に乗せて、短い繊維から大きな平面を織り出すような編集のイメージこそ、頭の中に図式的に構築しておく必要がある。

 特撮など、たかだか戦後の二十年間くらいはやっただけのもので、文化財として保護すべき歌舞伎や文楽のような伝統芸能でもあるまい。むしろ、CGの中に、サーボクレーンで撮ったグリーンスクリーン前の実写の演技を取り込むのが当たり前。まして特殊メイクなど、いまや夏のオバケ屋敷くらいのもの。たとえば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』などでも、役者の演技は、体の位置決めだけ。その位置に従ってCGが動いている。

 たとえ結果は似ていても、算盤やタイプライターとパソコンとの違いくらい、基本原理が異なる。専門的に言えば「パラダイム」というやつだ。エクセルやパワーポイントを使いたいのに、基本はまず玉の打ち込みとタイピングですっ、では、二進法とブラインドタッチから、などと延々とムダな練習をやらされるようなもの。

 しかし、問題は、こういう話は下位互換性が無い、ということ。パソコンを使えるやつは、そのほとんんどの機能を殺したものとしてタイプライターも理解できるが、タイプライターしか使えないやつに、パソコンが何であるかは、絶対にわからない。やつらは、パソコンをせいぜい電卓付きタイプライターくらいのものとしか理解できない。だから、連中に、何がわかっていないのか、説明のしようがない。

 もちろん、技能継承という意味でなら、昔のものの修復保管などのために、何人かが過去のパラダイムに習熟する、という必要もあるかもしれない。だが、全員がそんなことを学ぶ必要はない。技能など手段にすぎない。結果が出せるなら、それもより豊かな可能性があるなら、若い連中は、古い死んだパラダイムにムダな時間を割くことなく、新しい時代の新しい方法にこそチャレンジするべきだ。

 なんにしても、問題は古い連中。彼らは、若者たちから貴重な時間を奪ってしまっている自覚がない。それどころか、古いパラダイムがわからないやつに、新しいものなどわかるわけがない、新しいものは古いものの延長線上にある、と堅く信じ込んでしまっている。だが、内燃エンジンを持つ自動車は、肥大化した蒸気機関から発展したわけじゃない。パソコンは、コンセント付きの電動タイプライターから出来たわけじゃない。前者は、むしろ後者を途中で殺して出てくる。CGやノンリニア編集も同じことだ。とにかく、もう出しゃばるのはやめてくれ。次世代に席を譲れ。若者たちは、かなり迷惑している。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
 生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
 ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp
[img=1 size=200 align=left]

入試は予備校と文科省の茶番

/予備校や文科省がゆとり教育の名のもとに高校の学習範囲に制限し、入試を自分たちの利権にしてしまった。このため、大学側の主軸は推薦やAOにシフトしている。人生は抜き打ち試験。試験範囲など決められてはいない。/

 みごと的中、もなにもないだろ。いまや大半の大学の入試問題は、予備校や出版社が外注で作っているのだから。近年、入試が複雑多岐になりすぎて、大学には全部の問題を準備している余裕も能力も無い。入試問題を当てちまうなんて、それは大学入試のカヤの外の連中の話。前世紀には予備校が大学教員の直近の研究を調べ上げて問題を当てる、なんていうのもはやったが、いま大手がそんなことをしたら、学生集めのコンサルタントとして入り込んでいる大学との信頼関係が崩れてしまう。

 なんでこんなことになってしまったのか。もともとは無理をしても問題は大学が独自のものを作っていた。ところが、クセが強いだの、高校の学習範囲を逸脱するだの、予備校のほうが文句をつけてきた。いまから考えてみれば、これも当初からの連中の計略くさい。そのうえ、2000年には大学審議会までケツ持ちに回って、外部の専門家の協力を得るのは検討に値する、などと言い出した。2007年になってようやく文科省が慎重な対応を要請したが、これまたきれいごとでは済まない。少子化で縮小傾向の旧師範学校系教育学部閥に仕事を分捕り返し、高校の学習範囲を知らしめるため、私学に大量の団塊世代国立退職教員を送り込みたい、というような思惑があったようだ。

 いまどうなのか。一般入試なんて、偏差値上位の大学学部だけの問題。しかし、その偏差値ですら、人為的に操作されたもの。私学はもちろん国公立まで、推薦やAOで事前に大半の定員を埋めてしまい、一般入試ではほんのわずかの人数しか採らないで、ガンガンと受験生を落とすから、当然に見かけの偏差値は上がる。すべては、同様に少子化で苦しむ予備校との暗黙の茶番だ。数十年以上も昔の受験競争の体裁をいまだに装い、文科省と教育学部閥と受験産業だけが空回りして踊り騒いでいる。

 知ってのとおり、例のゆとり教育で、入試以前に「高校の学習範囲」なるものがむちゃくちゃひどいのだ。大学側としては、せめて公務員や一般企業の高卒採用の教養試験、時事・社会常識くらいの広い視野と教養を求めたい。だが、文科省に言わせると、それらがことごとく「高校の学習範囲」ではないということになってしまう。だから、推薦でもAOでもなんでも、とりあえず学生を集めて、後はこっちでやるからほっておいてくれ、ということにならざるをえない。大学だって、就職の出口の問題を抱えているのだから、入ってからどれだけの知性的な人間に仕立てるか、の方に重点を置いている。

 そりゃたしかに大学は高等教育だ。だが、文科省や予備校のように、高校の延長として位置づけるのは間違っている。もちろん高校までまじめに勉強してきた学生は歓迎する。しかし、それは、学習態度という意味でだけで、学習内容にはまったく期待できない。一般企業だってそうだろう。なにが学習範囲の準備として必要であるかは、大学や企業の専門性に鑑みて、採る方が決める、というのが当然じゃないのか。

 問題を当てたことを自慢するような予備校に行くのはやめておけ。当たった問題しか解けないようなゆとり野郎は、いまの時代、大学も、企業も、社会も、まったく求めていない。ボタンを押して答えを出すだけの自販機人間は、生きてはいけないし、生きている価値もない。大学から先は「学校」じゃ無い。人生すべてが抜き打ち試験。いつどこで試されるかもわからないし、試験範囲もへったくれもあるものか。それに耐えられる基礎的な教養常識と気力根性こそ、高校までの若いうちに身につけておくべき真の強い知性だ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
--純丘曜彰の1月の新刊!『近世ヨーロッパの思想と社会』--

http://www.amazon.co.jp/%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BC%9A-ebook/dp/B00B12ES9A

電子出版と紙媒体の相違と展望

/電子書籍は、紙媒体と違って、平面的なレイアウト設定がすべてキャンセルされる。これは、表示デフォルトが確立されていないからではなく、電子書籍リーダーが音声読み上げ機へと向かっているからである。/

電子出版をやってみた。アマゾンのダイレクト出版だ。作業そのものは簡単なのだが、仕組みやクセを理解するのに手間取った。そこには、新しい出版思想が見える。この問題をきちんと理解しないと、著者も、出版社も、紙媒体からの転回は難しいだろう。

 最初に驚くのは、本なのに、平面ページの概念がまったく無い。単純な文字列の線形データしか受け付けない。そのうえ、出版側では、そのレイアウトさえできない。ただ絵巻物のように、文字がずるずると横につらなっていく。これはアマゾンの独自仕様で、文字サイズなどを読者側が自由に操作することの方を優先しているため。基本は、e-pub の仕様やHTMLのタグなのだが、あえてマージンやパディング、スペーシングがすべてキャンセルされる。つまり、そういう設定を書き込んでも、完全に無視される。行間などは、キンドルのデフォルトの設定になる。フォントも、基本はキンドルのデフォルトの明朝とゴシックのみ。

 もちろんマンガや図表のようなフィックス・レイアウトのものを表示できないわけではないのだが、これをやると、いきなりデータ量がでかくなる。ところが、販売手数料設定がデータ従量制になっている部分があり、そうでなくても価格設定に制限がかかる。一言でいって、販売促進のための表紙以外は、画像は歓迎しない、というのがアマゾンのポリシーのようだ。一応、画角としては、自社製のキンドルを基準に、10:6という奇妙なものを推奨している。しかし、すでにi-padやi-phoneなどの他社製リーダーにも提供していることもあり、またそれぞれに画素数も違い、この推奨アスペクトでうまく表示されるとはかぎらない。

 WWWの創世紀のようだ。しかし、あのころでもVGAの640x480という国際規格がデフォルトで存在し、ブラウザの種類も限られていた。一方、電子書籍リーダーは、最初から乱立状態。それも、より小さく、より軽く、というリーダーの技術革新は、ペラペラの下敷きのようなものか、眼鏡の中に映し出すようなものになるまで、止まることはあるまい。それまで、画素数も画角もバラバラのまま。おそらくアマゾン内でも相当の議論があり、電子書籍は、線形データだけでいく、ということになったのだろう。

 実務的な話で言えば、ここでは近年のヴィジュアルに頼った編集や装幀は一掃される。嵐山光三郎だとか京極夏彦だとかの妙な校正の苦労は、まったく意味をなさなくなる。書籍デザイナーも不要。章立て、節分けの見出しすら、単位が大きすぎて、直感的には読者には伝わらないのだ。いわば原稿用紙、それどころか大昔の竹簡に戻る。文庫よりも小さい携帯電話の画面サイズで、文章自体のリズムだけで長々と読ませないといけない。

 まるで電話でダラダラととめどなく話をしている感じ。このことは文体にも影響を与えるだろう。夏目漱石や二葉亭四迷のような言文一致、戯作文調が相性がよさそうだ。言葉での語りに戻っていく。じつは、電子書籍リーダーは、最終的には画面無しのリーダー、つまり、まさに音声での読み上げ機になっていくのではないか、と思う。

 近代は、デカルト以来、光学的に目で見ること、百科全書のようにすべてを平面上で図解することによって知を飛躍的に発展させてきた。しかし、マクルーハンの言うように、それ以前には、音声での語りの知の時代があった。出版(パブリッシング)が目に見る紙の呪縛から解き放たれるとき、もう一度、語りそのもののおもしろさが蘇るのだろう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)

[url=http://www.amazon.co.jp/%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BC%9A-ebook/dp/B00B12ES9A/]近世ヨーロッパの思想と社会[/url]


 [url=http://sumioka.doorblog.jp]生活の哲学[/url]
 [url=http://newsbee.doorblog.jp]ニュースの蜂[/url]
ギャラリー