純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2013年02月

3Dテレビって何だったの?

/3Dテレビはコンテンツがダメで自滅。シャーP救済のための4kなんかにかまけているヒマがあったら、最新のグラスレス超大型3Dモニタに専念した方が、メディア文化を革命的に変化させる可能性がある。/

 3月末で衛星放送のスカチャン3Dが閉局するそうだ。2010年6月に始まって、3年と持たなかった。となると、3D放送は、WOWOWが月に数本、あとは教育テレビなんかがちびっと流しているだけ。意外にヒストリーチャンネルなんかが3Dドキュメンタリーなんかやっていたりするけど。3Dブルーレイが出ていないわけではないが、不要な通常版との抱き合わせで、やたらムダに高い。

 まあ、最初はちょっとおもしろいけれど、やっていることは、スピルバーグの昔の映画なんかと同じで、前に飛び出るか、奥に素っ飛んでいくか、そればっか。筋と関係無く、そんな遊園地みたいなアクションシーンばっか繰り返されれば、すぐに飽きる。『トランスフォーマー:ダークサイドムーン』なんかだと、垂直方向の落下のようなシーンが出てくるが、これはどうも失敗のようだ。画角を異様な横長にしてしまった以上、水平視界でないと、人間は奥行きが感じられないものらしい。

 本来、デジタル3チャンネル化で3D放送も増えるはずだった。ところが3チャンネル分を同時に使うハイビジョン放送だけが一般化し、旧画質マルチチャンネル放送や3D放送は行われず、かろうじてハイビジョン2分割のサイドバイサイド方式3Dに。しかし、これだと、3Dテレビ以外は、縦に詰まった変形画面が左右に並ぶことになってしまって、まともに視聴できない。だから、3D放送は止めた。放送を止めるから3Dテレビが売れない。売れないから、3D放送しない。典型的な縮小悪循環に陥った。

 1960年にカラー放送が始まったとき、第一に考慮されたのは、白黒テレビでの下位互換性。カラー放送は、そのまま白黒テレビでも見ることができた。それだけではない。白黒テレビでも画面右下に「カラー」と表示されたのだ。こんなのを毎日見せつけられていたら、そりゃ、いつかはカラーで見てみたいと思うだろう。そして、オリンピック。日の丸は赤だ。日本チームのジャケットも赤。『三丁目の夕日 '64』にも出てくるように、カラーテレビは、まだ高価だったにもかかわらず、この年から爆発的に売れ始め、量産効果で価格も下がっていった。

 一方、いまのテレビ屋さんたち。3Dテレビの始末も出来ていないくせに、今度は4kテレビだと。それ、潰れそうなシャーPの過剰生産を買い支える業界横断的救済策だろ。売れる当ても無いのに、そんなバカなことをやったら共倒れになるぞ。ただでさえ、ついこのあいだ、無理やりデジタルテレビを買わされたばかりだ。まったくコンテンツも無いのに、どれだけの人がもう次のに買い換えると思っているのか。技術は、企業の片輪にすぎない。需要という、もう一方の車輪無しに突っ走っても、空回りするだけだ。

 むしろ、まず3Dテレビの方をきちんとしないか。東芝、ソニー、パナソニック、フィリップスなどの超大型グラスレス3D(特殊メガネ不要)は、屋外デジタル看板としても、企業や大学の会議室・教室用としても、相当に有望な技術。医療や建築、工業の現場はもちろん、狭い空間を広く見せるインパクトのある錯視空間デザインとして高級ホテルやブランド店などでも、強く求められている。そこから普及して価格を落としていけば、民生用、家庭用の道も開ける。

 3Dプリンタとともに、3Dモニタは、パソコンとの相性が良く、使い方次第でタブレット以上の主力商品になる可能性が高い。前景から遠景まで、奥行きと広がりが必要な旅行番組や西部劇、カーナビやデジタルマニュアル、警備や案内などにも向いている。ラジオで十分なアップだらけのバカ芸人の録画トーク番組より、クレーンを多用したステージのダンス、臨場感が求められる公開放送や中継放送なんかが映える。見た目が派手なだけのアクション映画しか思いつかない古い連中なんかに頼らず、もっときちんと3Dコンテンツの特性と可能性を分析理解して、メディア文化論的に緻密な展開戦略を構築していこうぜ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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バカ発見器の次はパクリ発見器

/最新のヴロニプラークシステムを使えば、過去の論文などの盗用が一発で暴き出される。図像や音楽についても、いずれ同様。それも電子図書化で、数十年、数百年も前のパクリまで、すべて世間にさらされることになる。/

 9日、ドイツのメルケル首相の側近シャヴァン教育研究相がクビになった。理由は、33年も前の学位論文における盗用疑惑。彼女だけではない。2011年3月には、グッテンベルクお坊ちゃま国防大臣も、同じ理由で辞めさせられて、米国に逃げてしまっている。この調子で、政治家たちが次々に討ち取られている。

 重要なのは、その発覚の原因だ。ウィキペディアの中心として有名なジミー・ウェールズなんかが剽窃発見器を作っちまったこと。ヴロニプラーク・ウィキと言う。論文をぶち込むと、あらすごい、たちどころに既存の論文や書籍との平行箇所を洗い出し、DNA鑑定のようにバーコードで表示して、盗用疑惑率をはじき出してくれる。まあ、専門の学者なら、こいつ、怪しいな、と思うやつを見かけたことはあるだろうが、よほど個人的な恨みでもなければ、いちいち手間をかけて検証したりしない。だが、このヴロニプラークを使えば、一発でわかる。

 このシステムは、もともとバイロイト大学のアイディアで、現行稼働はドイツ語と英語だけだが、すぐにほとんどすべての言語で使えるようになるだろう。ドイツではとくに社会的地位に学位が必須であるために、まずは著名政治家が狙い撃ちになっているが、遠からず世界中の一般の研究者の論文もすべて精査される。当然、小説やエッセイ、ノンフィクションなども。それも、新規の著作だけではない。スキャナーOCRや電子図書化の発達で、数十年、数百年も昔の盗用が暴き出されることになる。

 これは大変なことだ。先述のように、著名な作家や学者の中にも、前から疑わしいとウワサになっているやつらは少なくない。ただ、業界内での権力のおかげで、つつかれずに済んでいるだけ。しかし、このパクリ発見器は、そんなもん知ったこっちゃない。放り込めば、まったく無慈悲に機械的な結果を出す。たとえ個々の箇所は出典明記のフェアな引用でも、その比率が過半ともなれば、それは原典の方を主とする注釈集にすぎず、オリジナルの研究とは認めがたい、ということになる。著名な人物ほど、大きなスキャンダルになって、その地位と名声から引きずり下ろされ、踏みつけられることになるだろう。

 容易ではないが、じつはこのシステムは、画像や音声、さらには演技や演出のようなものにも応用できる。実際、すでに車のナンバープレートの読み取りは実用化されているし、顔認証システムもかなりの精度になってきている。図表などは、すぐに簡単にひっかかるようになるだろう。マンガや音楽でも、シロウトが似てると思うようなものは、どれくらい似ているか、盗用の疑いをすぐに計算できてしまう。それどころか、だれも似ていると思っていなかったようなものまで、類似性を関連づけていくことができる。

 もちろん、似ている=盗用、ということではない。だが、これまでわざわざ調べないとわからなかったことが、自動で出てきてしまう。似てばかりいるとなれば、亜流のそしりは免れえまい。ましてドンピシャでは、言い逃れもできまい。作家や学者、政治家や経営者、アーティストで過去に盗用をやっていたやつらは、おびえて、とっとと手じまいを考えた方がいいぞ。このパクリ発見器で社会的に炎上してからでは収拾もつくまい。

 もっとも、このパクリ発見器、大きな穴がある。事実の有無自体は検証できない。だから、他の文献のどこにも出ていないような、まったくの嘘八百は、逆にひっかからない。実際、ウィキペディアなんかでも、ビコリム戦争のような怪しい記述は恐ろししいほど多い。だが、それも、人物や年代、その他の意味論的整合性までチェックできるようになれば、さらにゴロゴロと過去のインチキ研究、イカモノ記事の数々が堀り起こされることになる。言うまでもないが、暴く側がいかにあれ、つねに誠実に自分自身の言葉を語るように気をつけようぜ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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いまさら猥褻(ワイセツ)ねぇ。。。

/猥褻裁判は、57年の最高裁が、羞恥感情は人類普遍の社会通念であり、法解釈として裁判官が基準を決められる、という、ひどい独断判例を残してしまったために、いまだに混乱を極めている。だが、国際的な社会通念からすれば、性も生の一部であり、こんなものを騒ぐ余地そのものがあるまい。/

 一昨年のエロマンガ騒動は、最初から商売物で、こりゃアウトだろ、とわかりやすかった。ところが、今年になってから面倒が立て続けに起きている。第一が、川西の写真集の発売中止。第二が、会田誠の展覧会への批判。第三が、昨日2月4日のレスリー・キーの逮捕。川西のは、子供が手で胸を覆っているのがいかんのだそうだ。会田は、児童ポルノに当たるんだと。まあ、ここまでは、いろいろな考えがあるわな、という程度の話だが、レスリー・キーは、官憲が実際に逮捕しちまった。当然、すでに公判維持の目途も立っているのだろう。

 いまさら猥褻裁判など知らない人も多いだろう。日本の刑法175条には「猥褻な文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する」うんぬんとあるのだ。じゃあ、どうだったら猥褻なのか、というと、この肝心なところが法律に書いてない。そのために、憲法21条の表現の自由とのかねあいで、かつてずっとすったもんだやってきた。

 猥褻裁判は、最初のところでおかしくなった。1957年、チャタレー事件において、最高裁が、社会通念に基づく法解釈として、どうだったら猥褻なのか、の基準は裁判官が決める、という悪名高い判例を残してしまった。つまり、どうだったら猥褻なのか、は、法律に書かれていない以上、裁判官が社会通念に鑑みて法律の解釈として判断する、ということ。猥褻かどうかは事実問題ではなく、法律のハードル次第、というわけだ。そのハードルも、裁判官が、これくらいになるとみんながいやらしいと思う、と思えば、アウト。こんな恣意的な自己参照は、法律以前に論理学としてダメだろ。だが、この出来損ないの基本線に従ってその後の事件を裁判するから、どれもこれも収拾がつかない。

 芸術か、猥褻か、というのも、ダメ。1969年の悪徳の栄え事件において、最高裁は、いかに芸術的であっても、同時に猥褻的でありうる、と言って、有罪にしちまった。1982年の愛のコリーダ事件では、猥褻で何が悪い、刑法175条が憲法違反だ、と監督の大島渚が吠えた。ところが、東京高裁は、これは猥褻じゃないから知らん、と、ひよっちゃって、最高裁に上げずに検察側控訴を棄却してしまった。で、結局、刑法175条は、あいかわらず曖昧のまま。

 さて、レスリー・キーだ。まちがいなくポートレートの天才だ。だけど、写真にしょっちゅうオチンポが写ってる。ガチムチのイケメンがモデルの作品は、実際、もーほーの方々にも大人気。さて、どうするよ。男なら前に飛び出してついてるんだし、そりゃ写真を撮れば写るよなぁ。それに、この程度で驚いていたら、イタリアなんか旅行できるかよ、そこら中の広場に、こんなの、いっぱい立っているぞ、とは思う。だが、芸術的だから、猥褻的ではない、という理屈は、先の判例のせいで通らない。じゃあ、社会通念上、猥褻的というハードルにひっかかるのか、というと、なんとも言えない。そりゃ、猥褻だという人もいるし、そうでないと思う人もいる、というだけのことだろう。

 実際、彼に自分を撮ってもらいたいという人は、男でも、女でも、有名人でいくらでもいるが、だれもそれを猥褻的なことだとは思ってはいまい。一方、もーほーの方々は猥褻だと思うから彼の作品を喜んでいるのだろう。しかし、いずれにせよ、これまた最初の判例のせいで、裁判官が社会通念に鑑みてハードルを勝手に決められることになってしまっている。弁護側は、社会通念として猥褻ではない、と言うのだろうし、検察側は、実際に猥褻なものとしてもーほーの方々の間では取引されている、という事実を突くだろう。だが、もーほーの方々の受け止め方が社会通念と言えるのか、などということになると、これまたややこしい。

 さらにまずいのは、会田誠だ。専門家なら、あれが猥褻であることなど、わかっていないやつはいまい。シロウトだって、どう、と聞かれれば、裸や絡みの絵でなくても、なんか、やらしい、と、みんな答えるだろう。つまり、社会通念として、確実にクロ。だから、検挙されてしまったら、裁判官がよほどのウルトラCの法解釈を新たにひねり出さないかぎり、有罪になる。だが、彼の場合、その猥褻性が芸術的なわけで、へたに手を出すと、世界の文化全部を敵に回すことにもなりかねない。

 さて、猥褻の社会通念とやらだが、最初の最高裁の話だと、人類普遍の本源的羞恥感情、だそうだ。したがって、それは、時代や場所によって変わったりすることはない、とまで言い切っている。となると、いまの日本がどうこういうことではあるまい。ネットには他にもっと猥褻なのがあるじゃないか、というような、スピード違反の言い逃れみたいな論法は通らない。

 だが、イスラム圏の原理主義では、女性が顔をさらすのも、性的で卑猥。一方、先述のように、イタリアなどでは、すっぽんぽんの彫像が乱立。それらをもおしなべての人類普遍の社会通念からすれば、絵画や写真、映画や文学にかぎらず、性も含めての人間のナマの生がしばしば日常的に話題として採り上げられ、愛と欲とが複雑に絡み合う人間の営みのひとつとして人々の深い関心を呼んでいるというところだろう。猥褻もまた、まさに人間の感情の一部。羞恥心で隠そうとする心の動きを、包み隠さず暴き出してこその芸術。そういう水準の話をしているのに、毛が生えてる、オチンポがついている、って、あたりまえじゃん。そんなの、中学生でもあるまいに、いまさら騒ぐようなことか。

 もちろん、ところかまわず公然猥褻をやらかすのは、それこそセクハラ。だが、図画については、私的に譲渡されている以上、公権力の出る幕ではあるまい。見せしめとしてレスリー・キーを挙げたのかもしれないが、彼の世界的評価について知らんのか。国籍のこともあり、余計なことをすれば、会田なんか以上に国際的な政治問題、文化問題になるぞ。検察や裁判官は本気でも、隣の国を笑えんな。オリンピックから文化交流までいろいろ難しい予定があるのだから、いま、くだらないことで揉め事を起こすなよ。

 アーティストの方も、もっと社会的な自覚を持てよ。まずいんだよ。面倒は起こすなよ。昔よりすぐ目立っちゃうんだよ。それが、取り締まらなければならない側をイラつかせている。中学生のチャリ族じゃあるまいに、ムダにおまりさんを挑発する必要なんか無いだろ。とにかく、この国には、厳然として刑法175条があるんだ。本気でやるなら、大島渚みたいに、この刑法175条そのものと戦えよ。そんなことにムダに時間をとられたくない、と思うなら、きっちり私的領域内というルールを守ろうぜ。

 とにかく、この種の猥褻裁判は、まさに不毛だ。刑法175条上の「猥褻」の基準は、国語辞典的な意味で猥褻であるかどうかではなく、純粋に法理上の術語として、憲法に抵触する虞れのある検閲発禁を発動してまで社会的に特定の表現作品を排除抹殺禁止することが社会通念として許されるどうか、むしろ警察・検察側の特例的権限付与の可否こそが逆に問われるべきである。つまり、その適用には、戒厳令なみの慎重高度の政治的、司法的な判断が求められる。検察や検察、裁判官個人ごときが、自分で自分に勝手にこの刑条の行使の権限を付与するようなことは、それこそ越権的犯罪だ。

 いまやネットにポルノが溢れかえっている。グーグルですら、セーフサーチをオフにしたら、画像検索で裸がゴロゴロ出てきてしまう。ここにおいて、どう考えても、キー程度の作品ごときで、憲法に触れるほどのややこしい刑法175条を発動し、発禁もやむなし、とすることが社会通念として認められるわけがない。ただ、キーの方も、展覧会や頒布方法に慎重さを欠いていたことも事実だ。なんにしても、まず猥褻はダメな公的な場について、みんなで社会通念を啓蒙しようよ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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