純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2013年04月

スマホこそ仕事の障害

/連絡、計算、折衝は、パソコンのオフィスツールと電話で充分。スマホの出番はない。そもそも電話したら見えない、見たら電話できないスマホのデザインは、ヒューマンインターフェイスとしても最悪の欠陥品。だが、アプリ販売に収益依存する通信会社は、そのビジネスモデルを捨てない限り、次のパラダイムへ進めなくなってしまっている。/

 近代の自由契約のビジネスは、連絡、計算、折衝で出来ている。それゆえ、パソコンが登場して一世代二十年で、仕事に必要なツールは、結局、アウトルック(メール&予定表)、エクセル、ワードに淘汰された。あとはせいぜい見栄えのいいパワポとビッグデータが扱えるアクセス(データベース)で充分だろう。ただし、連絡や折衝では、先方の微妙なニュアンスを読み取る問題があり、こうなると、出張して直接に会う、せめて電話の受け答えを肉声で行う必要が出てくる。

 問題は、その電話だ。携帯になって直接に相手に繋がる機会は増大した。だれかに伝言を頼むくらいなら相手への直メールの方がいい。しかし、いずれにせよスマホは必要性がない。もちろん、ハンディパソコンとして、地図やデータベースの読み出しをする、という使い道はないではない。ところが、実際をみてみろ。ビジネスマンのくせに、スマホに入れているアプリは、仕事に関係のないガラクタばかりじゃないか。そんなゴミと戯れているヒマがあったら、顧客に電話の一本、メールの一本でも入れろよ。

 さらにまずいのは、スマホのせいで、通信会社のビジネスモデルがおかしくなってきていること。ネットやメールによって、ビジネスとしての通話は頭打ち、それどころか減少傾向にある。私的にも、娯楽の多様化で、以前より長電話は激減している。かといって、データ通信も、動画の垂れ流しでもしないかぎり、そうそう増えない。そのため、かつてのゲーム専用機に代わって、スマホがガラクタアプリを販売するためのプラットホームになってしまった。ここに、ビジネスソフトでMSの独占標準化に惨敗した連中、ゲーム専用機でのメガヒットゲームが出せなくなった連中が大量流入。いりもしないあれやこれやをオバカな顧客にムダに売りつけることで、通信会社も、アプリメーカーも、かろうじて命脈繁栄を保っている状態だ。

 もともとスマホというものが、ヒューマンインターフェイスのデザインとして、スマートどころか、あまりにオバカすぎる。あれを耳に当てていたら、画面が見えない。画面を見ていたら、電話ができない。本来であれば、下敷のように超軽量の視覚的な資料表示用タブレットパソコンと、メール読み上げ機能付きの聴覚的な「腕電話」に二つに分離連動して発展すべきものだろう。そして、さらには、ウェアラブルな「メガネ電話」として、視覚と聴覚に直結するものとなるだろう。ところが、いま、そうしようとすると、半端な液晶画面のスマホでムダなアプリを大量消費させて儲けるという現行ビジネスモデルを放棄しなければならなくなる。ここでは、顧客の利便性の向上と企業の収益性の向上がバッティングしてしまっていて、次のパラダイムに進めない。

 じつは昔、NTTでダイヤルQ2(当時は「マスコーリング」)のコンセプト開発の手伝いをさせていただいていた。そこで最大の問題だったのは、公共通信会社が直接に通信内容のコンテンツに関わることの可否(放送事業との区別)。そして、通信会社による私企業コンテンツの料金徴収代行の風穴があいたことが、その後、着メロその他で自由にカスタマイズできる携帯電話の大ヒット、さらには現在のアプリ販売に繋がった。

 しかし、現状をみるに、このことが通信会社、さらには日本のビジネス活性化の大きな障害となってきてしまっているのではないか。電力同様、通信事業そのものと機器やコンテンツの販売をふたたび完全分離しないと、次の時代への風穴が開かないのではないか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン、専門は哲学・メディア文化論)
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技術封建制(Technology Feudalism)

/ソフトウェアが時限利用権の販売に切り替わりつつある。これは、技術がパラダイムの天井に近づいて、アップデート価格が品質向上の差分に見合わなくなり、顧客が買い換えなくなったため。だが、業界支配による利用権販売は、実質的には顧客からの収奪ではないのか。/

 技術の貸借を媒介とする保護と忠誠(納税)の契約からなる制度。ソフトウェアやコンテンツが、新しい社会関係の根幹となりつつある。かつて本やレコードは、モノであり、その所有権を買うことができた。それゆえ、その中古もまた、自分のモノとして転売することもできた。しかし、デジタル化によって、自動時限で、もしくは、リモートで即時に、商品を消滅させることが可能となり、メーカー側があくまで商品の所有権を保持し続けるようになりつつある。顧客は、その商品の時限利用権(サービス)を一時的に貸与されているにすぎず、定期納税によって利用権の更新をし続けなければならない。

 たとえば、トランシーバー。かつては、それを買えば、それを永続的に使えた。だが、携帯電話は、毎月の通信費を払い続けなければ、通信を止められてしまう。ソフトウェアに関しても、アップデートは、もともと品質向上の差額負担であったが、もはやメーカー側がかってに打ち出す新標準規格へ追随対応するための定期納税となりつつある。そして、アドビその他、最新ヴァージョンの恒常的クラウド化を名目に、ソフトウェアそのものの販売を中止し、利用権の販売への切り換えが始まった。まして電子書籍などでは、当初から実質的に利用権のみの販売であり、顧客はコンテンツの所有権を持たない。

 メーカー側にも言い分はある。アンチウィルスソフトを典型として、ソフトウェアの場合、開発製造だけでなく、販売後のサポートもまた事業として大きな比重を占めており、その有償化が求められていた。そのうえ、ソフトウェア本体は、もはやパラダイムの天井に近づきつつあり、アップデートの更新費が品質向上の差分に見合わなくなって、顧客が古いヴァージョンのまま使い続けるようになり、新ヴァージョンの売り上げが低迷してきてしまった。それゆえ、経営戦略として、有償事業の主軸を、技術的な開発製造から顧客サポート(封建主義的保護)へシフトさせることになってきたのだ。

 とはいえ、これは経済として健全な傾向ではないのかもしれない。というのも、いったん業界主流となって標準規格を私的に支配してしまえば、あえて新規の技術開発などしなくても、定期的に法外な収入が見込めるからだ。サポートも名ばかりで、実質的には何もせずに、イヤなら使うな、と突っぱねることもできてしまう。こうなると、それは封建的な支配による収奪であって、商品やサービスの適正対価に基づく経済ではない。

 現行著作権と私的自由契約の原則は、いずれの国も、このような事態を想定しておらず、技術封建制への流れを許容、それどころか促進してしまっている。それゆえ、マイクロソフト、グーグル、アマゾン、アップル、アドビ、など、さまざまなソフトウェア・コンテンツ企業が、特段の悪意も無く、当然の経営判断として、いずれの国をも飛び超えた形で、この新しい国際的な封建技術帝国を築きつつある。今後はさらにロビイストたちを使って政治にも大幅に介入するだろうから、それができあがってしまってからでは、それを突き崩すことは困難だろう。

 二十世紀初頭の財閥資本主義は、独占禁止法によって、かろうじて踏みとどめられた。だが、いま起こっているのは、金融支配ではなく、技術支配であり、古い独占禁止法では対応できない。そのうえ、この収奪問題は、低開発第三世界に対する新たな帝国主義として、いずれ激烈な反発を買う危険性がある。健全な市場競争、適正な商品やサービスの対価を法で維持するのは、政治の責任ではないのか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン、専門は哲学・メディア文化論)
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クラスフォントでネットモンスターを排除する

/近年、多様なデザイナーフォントが大量に出回って、視認性を強調する。しかし、フォントには、もともとあえて不慣れな人々に読みにくくする社会的な排他機能がある。専門連中の論争議論からネットモンスターの介入を防ぐために、ドレスコードと同様、クラスフォントが求められる。/

 パソコンの普及とともに、フォント(字体)というものが一般にも広く知られるようになった。日本語フォントで近年の最大の問題は、横書きの標準化。もともと漢字やかなは縦書を前提としているが、小説などの文系書籍をのぞき、パソコンからビジネス書類、公共の場の掲示まで、どこもかしこも横書。これまでの縦書の印刷活字のフォントではかならずしもうまく対応できないのだ。

 かようなわけで、大量のフォントデザイナーが出てきて、従来の縦書用のゴシック/明朝とは異なる独創的なフォントを試みている。これには、大きく2つの方向がある。ひとつは、「手書きフォント」と呼ばれるもので、居酒屋風だの、女子高生風だの、いろいろ。従来であれば本人が自分の個性で書くか、個別に面でデザイナーに発注していた掲示などが、それらしく簡単に作れる。もうひとつは、「デザイナーフォント」と呼ばれる、ゴシックとも明朝ともつかないもので、ユニヴァーサルな視認性を重視し、ふところやテンハネなどの文字の特徴を強調して、視力の弱い人でも見やすくしており、縦書小説でさえ、このような新しいフォントを好む出版社も少なくない。

 しかし、近年の日本語のデザイナーフォントは、欧文のフォントデザインの哲学に比して大きな欠陥がある。書体は、あえて不慣れな人々には読みにくいことによって、社会階層を分離する機能がある、ということだ。欧文のフォントは、そのフォントを見ただけで、どういうジャンルの本なのか、どういう地域の掲示なのか、すぐにわかる。万人向け、公共の場、というのも、しょせんはひとつのジャンルや地域にすぎない。それ以外にもさまざまな排他的伝統クラスフォントがあり、ドレスコードと同様に、分違いの人が無駄に近づき、無用の混乱を招くことをおのずから牽制している。

 日本語でも、篆書、隷書、くずし字、カナ書きと、かつてはクラスフォントが明確に確立されていた。明朝かなの口話体もまた、近代の印刷物によって普及したフォントであり、読書家知識人が威厳を保ちつつ公共向けに述べ伝えることを趣としており、知識人内部ではあくまで明朝小カナによる漢文訓読体が維持され、一般人の安易な介入を拒絶していた。一般人は、新聞の投稿でも、自分の文章が活字になるというだけで興奮した。

 戦後の民主化によって、できるだけだれにでも読みやすく、という公共の方向性が打ち出されたのはよいとしても、近年のデザイナーや編集者が、かならずしもかつてのような読書家の知識人ではなく、彼らが生まれ育ってきた土壌である通俗スポーツ新聞と同じノリで、ごたまぜフォントの印刷物やベタフォントなネット投稿欄を作るものだから、相応の専門連中の論争議論にも、ドシロウトがタメで割り込んで引っかき回す、というのが当たり前になってしまった。あまりに騒々しいのでお引き取り願おうにも、上から目線だの何だの、さらに喚き散らして暴れ回る。ドレスコードが崩れてしまった結果、一流ホテルや高級ブランド店に普段着の金満モンスター客が入り込んで居座り、大声で騒ぐようになってしまったのと同じ。

 いま、品格と威厳のクラスフォントを再生しようとしても難しい。ドレスコードと同様、それは、特定社会階層の長年の伝統によって熟成されるべきものだから。だいいち、パソコンでは、どんなフォントでも、読む側が自分の好きなものに勝手に変えられる。とはいえ、そのうちネットでも、プロは高級高価な限定フォントのフィックスで記事を出稿するようになるだろう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン)
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