/本をタダで貸す公共図書館は、ネット上のDVDのパクリと同じ。いくら著者や出版社が読者のためを考えて、あえて苦渋を飲んで文庫化や電子化でコストを抑えても、それを盗み、タダでみんなにばらまくやつらがいては、どうにもならない。/

 紙か電子か、というのは、モノの話。マーケットからすれば、電子書籍の普及を阻害しているのは、公共図書館だ。ちょっと読めればいい、という「顧客」に、一方が、読みやすい紙の本をタダで貸し出している以上、いくら値下げしても、かなうわけがない。

 もともと公共図書館は、本というモノ、紙というモノが超高級貴重品だった時代の名残り。一般庶民にも「生涯学習」として本の教養を普及し、社会の知的底上げを図り、階層固定化を防ぐ、というのが当初の目的だったはず。ところが、現実は、1970年代以降、「読者リクエスト」とやらのせいで、驚くほどの雑本だらけ。そのうえ、図書館には、単純な部数のみによる査定があり、これを超過すると、すでに充分に充実している、として新規購入予算を削減される危惧がある。このために、永年保管に値しない大量生産の重複本は、毎年、その大半を廃棄処分することで「活性化」が図られている。

 だが、もともとこの社会教育の思想は、高級単行本の情報を、紙というモノとしてのコストを抑えた文庫にすることで教養普及を図る、というレクラム以来の出版社の文庫化の努力とバッティングしている。政治は民生の補完のみ、ということからすれば、公立図書館(私立の公共もある)は、一般庶民が購入を躊躇する高級単行本のみを所蔵し、文庫や新書については民生に任せる、とすべきだったはず。ところが、その文庫や新書、それも通俗的な雑学本や娯楽小説、さらには下世話なスキャンダル雑誌の類いまで公立図書館でタダで座って読めるのだから、町の本屋の立ち読みですら廃れていくのは当然。

 連中の屁理屈からすれば、本に貴賎なし、高級本と雑本は区別できない、とか言うのだろうが、いずれにせよ、現行の著作権法はともかく、著作権法の精神からして、これほどひどい権利侵害もあるまい。情報発信は結構だが、それは図書館のものではない。本こそが情報であり、それはモノではない。取材費用、創作費用、そして編集費用をかけて著者や出版社が作り出したものは、紙ではない。同じ紙を貸して返させるだけならタダでもよかろうが、有料の情報をかってに自分のもののようにタダでばらまかれたのでは、いくら出版社が文庫や電子出版で紙のコストを抑えても勝ち目はない。ネットでのDVDのパクリ提供と同じ。本の意義と価値をもっとも踏みにじっているのは、まさに公共図書館だ。

 もちろん大学図書館や地方の中央図書館などが、たとえ通俗的であれ、希少本や絶版本を所蔵し、必要に応じて参照できるようにしておくことには意味があるだろう。だが、その他の公共図書館が大衆娯楽を、それも無料で提供する、などというのは、すくなくとも日本の社会現状では異常だ。公共ホールでの演劇やコンサートは、文化予算による軽減措置があってもなお、相当の金額を観客から徴収するのと同様、公共図書館の貸出もまた有料が当然。それも、この貸出価格は、大きなコスト(社会負荷)のある紙媒体である以上、情報のみを提供する電子書籍より低いようでは、経済的に「公正」ではない。

 出版社が文庫化や電子化で苦労してコストを抑えた、一般でも買える程度の安価な本をタダで貸すこと、これこそが図書文化破壊の最大の元凶であることを、公共図書館はもっと自覚すべきだ。屁理屈をこね回す暇があるならば、大衆娯楽の文庫や新書、雑誌の類いからは予算を引き上げ、重要な希少本や絶版本の完備はもちろん、読書相談や図書紹介など、その本来の社会的な教養普及の役割にのみ集中特化し、一般書籍を読める読者層の知的育成を図ってこそ、紙媒体や電子書籍と共存共栄の図書文化の未来は開ける。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

オフィシャルサイト http://www.hi-ho.ne.jp/sumioka-info/
生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
ニュースの蜂 http://newsbee.doorblog.jp)

付記(2013.6.7)

 うーん、なんでこんな常識的な話にアクセスが多いのか、驚いている。かのバカ発見器などを見ると、図書館関係 者だの、専門研究者だのでさえ、まったく時代錯誤な不勉強なことを書いているのを見つけ、まさにバカ発見器なのだなぁ、と、これまた感心。いや、ひょっと すると、じつは連中も国際情勢の劇的変化をよく知っていて、高圧的態度で世間を騙し黙らして、ガラパゴス国の中での似非図書館の安穏な既得権を守ろうとし ているのか?

 図書館と著作権の相克の問題(公共貸与権)は、ヨーロッパでは百年も前から議論にあがり、戦後、次々と法制化され、英連 邦、さらに92年にはECでも承認されている。いまだに揉めているのは、泥坊上等のイタリアくらい。その一方で、研究教育その他のフェアユースについても 強力な権限を付与し、権利義務の双方から厳格運用が図られている。(たとえば、こんな感じ。http://blog.livedoor.jp /sumioka_t/archives/51300103.html)

 日本は、昨年に著作権法が改正(改悪)されたにもかかわらず、 ダブルスタンダードのままで、DVDなどについては貸与や複製に補償制度を認め、かつ、それ以外のデータ操作については刑事罰を持って臨む一方、図書は、 あくまでモノとして、そのまま放置された。(著作権法26条の3および附則4条の2)しかし、音声や動画も含みうる電子書籍の登場普及によって、DVDと 図書のカテゴリー区別の方便は、もはや不可能となりつつある。

 図書館によって本の売上もプラスになる、だからいいんだ、というような屁 理屈が許されるのであれば、同じ論理で、映画や音楽のネット上での複製も認めなければならない。そもそも、たとえ売上がプラスになるとしても、文化普及を 名目に出版側には再販制度によってむりやり全国一律の定価維持を強制しておきながら、血税で建てた図書館では地元民の御機嫌取りに無料でそれをばらまき、 きちんと本を自前で購入する善意善良な読者にはその定価のみならず消費税まで追加請求する、ということが、文化的に、また、政治的、経済的に「公正」か。 こんな正直者がバカを見るようなしくみは、正規の本の読者を愚弄していないか。

 また、貧窮者を含めた国民の文化的水準としての保証、と いう理屈も、日本は、生活保護が充実し、そちらで文化費相当が現金支給されている以上、図書館無料の根拠となりえない。他方、公共ホールのコンサート、公 共体育館のプール、など、利用者の本人負担が当然となっていることなど、現代の日本の諸制度の全体的構成を鑑みて、いまだに公共図書館の本の利用のみが完 全無料である根拠を探す方が難しい。そもそも図書館が無料で本を提供できてしまうのは、図書館が相応の著作コストを負担せず、他人のものを「盗用」してい るからではないのか。(19世紀までのように、著作が図書館の支援なしには不可能であったのであれば、図書館を媒介に、前世代からの無料の恩恵を次世代に 無料で還元する、という理屈も成り立っていた。だが、いまの雑本だらけの通俗図書館はもはやその用をなさず、また、その「読者」とやらは、消費するだけ で、なにも図書館には還元しない。)

 図書館は、文化アーカイヴであって、暇つぶしのための無料の娯楽の場ではあるまい。ところが、日本 の場合、利用実績を水増しするために、図書館本来の使命を二の次にして、とりあえずの客集めを優先してしまっていると疑わざるをえないところが少なくな い。一方、公共貸与補償制度を確立しているドイツ国立図書館などでは、すでに1998年からオンラインの電子書籍の収集を始め、2008年には電子書籍に ついても納本を義務づけるようになった。しかし、いまの日本のような、遅れた著作権法の下で、図書館が電子書籍を「購入」し、これを不特定多数に貸与した とき、どうなるのか。

 とにかく、せめて司書学や図書館学に関わる人々は、図書館なら何をやっても許されるんだ、というような陳腐な特権意識を改め、著作権や電子書籍の置かれている国際的情勢について、きちんと最先端のところを学んで欲しい。そうでないと、これでは議論以前の問題だ。