純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2013年07月

プロのジャーナリストなんか電波芸者だろ

/汎用ジャーナリストなんて、いっちょかみだけの話芸。シロウトのうえに、片足が業界保身だから、コメントにキレが無い。番組や雑誌の制作は、そんな連中に頼らず、話題ごとに語るべき人を掘り出してきてことこそ、本来の仕事じゃないのか。/


 東京にMXなんていう余計なテレビ局ができたときは利権臭さが充満していたが、97年にFM東京に買収されてから、他の全国ネット局では考えられないよ うな、えらいぶっとんだ番組を流すようになって驚いた。その典型が、夕方帯の『5時に夢中!』だろう。ああいうのを見ると、べつにテレビなんかに出なくて も本業で喰えてこその本音のコメンテーターだよなぁ、と思う。


 かつては、何年もかけて対象に密着し、地道に調べ上げて本を書く、なんていう硬派のジャーナリストもいた。だけど、いまじゃ無理。そんな本、数百部も売 れない。取材経費でワリが合わない。あの頭ちりちりのおばおじさんの田中角栄批判あたりからおかしくなった。通俗週刊誌とタイアップして、決めつけと思い 込みでスキャンダルを煽りまくる。どんどん粗雑にヨタネタを「飛ばす」。一方、テレビじゃ、とにかく大衆受けが肝心。ろくに勉強もしていないくせに、なん でもかんでも出しゃばってきて、世間の風向きに合わせ、困ったことですね、ふう、などと、眉間にシワを寄せて、いかにも世を憂いているかのようなポーズだ け。評論家はもちろん、政治部の記者まで、裏で、政党の講演会などで法外なギャラをもらってるくせに、よくやるよ、と思う。


 もともとジャーナリズムは、17世紀末のカフェで生まれた。株式会社のブームで、自前の大金を投資をするのに正確で最新の国内外の情報が絶対的に必要と されていたからだ。ところが、現代のジャーナリズムは、暇つぶしの娯楽。なんだかよくわからない有名人たちへの好奇心や嫉妬と、社会参加しているかのよう な錯覚を与えるガス抜きのためにだけに存在している。だって、番組を見て、記事を読んで、コメンテーターの意見を参考に、視聴者や読者が自分の財産や人生 を懸けるわけじゃないだろ。


 もちろん、ジャーナリストの側にも言い分はあるだろう。俺達にだって本音はある。やりたい仕事はある。だけど、そんなことをやったら、この業界では喰え なくなるじゃないか。まさに電波芸者。番組や雑誌という御座敷で三味線を弾き、視聴者や読者、そして取材対象という御大尽たちに気に入られてナンボの商 売。どんな分野の話題でも体よくこなし、あたかも丁々発止の論戦をやってみせるが、べつにその分野に自分自身まで投げ込む度胸もなく、しょせんはいっちょ かみの「話芸」。お笑いのボケやツッコミと同じ。


 だが、どのみち専門外なら、片足が業界内の保身で硬直しているプロの「ジャーナリスト」なんかより、捨て身上等、の、ほかにまともな本業のある連中の本 音コメンテータ-の方がおもしろいに決まっている。それどころか、ほかに本業がありながら、特定の分野に関して自腹を切ってまで長年に渡って調べ上げてき ていて、ヘタなプロの評論家なんかよりはるかに詳しい、という熱烈マニア、執着正義漢というのもいる。


 とはいえ、誰が詳しいのか、なんて、そいつがそれで喰っているわけではないから、表面に出て来ず、簡単にわかりゃしない。だからと言って、なんでもコメ ント出来る汎用のプロのジャーナリストばかり便利に使い回していても、どの番組や雑誌も、同じ話題を、何回、繰り返しても、中身までみんな同じになる。で も、番組や雑誌の制作というのは、毎度、個々の話題に応じて、本当に詳しい人、本当にコメントするに値する人を、現場や在野から掘り出してくるのが仕事な んじゃないのか。そうであってこそ、我々の財産や人生が懸かっている重大な隠れた問題を社会に知らせることができるんじゃないのか。


 べつに自分たちのやっていた『朝生』が理想だなどと言う気はないが、ちかごろのドシロウト以下の芸人みたいなコメンテーターだか、ジャーナリストだか を、各局各誌で甘やかして使い回しているのを見ると、制作側が、ほんとうに真剣に番組や雑誌を作る気があんのかよ、と疑問に思う。そんなの、とっととばっ さり切り捨てて、本当に世間に語らせるべき中身のある熱いやつを掘り出してこいよ、それがあんたらの仕事だろ、と思う。そういう連中のコメントであってこ そ、語る言葉に本物の赤い血が流れている、ということくらい気づけよ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。


指原姓に隠された猟奇的暴君のスキャンダル

/指原の姓は、江戸時代始めまでの指腹の慣例に基づくものではないか。それは、自分の腹を割いて潔白を示し、相手にも切腹を迫るもの。実際、大分府内藩第二代竹内重義は、妖刀村正に魅せられ、キリシタン惨殺とアジア密貿易に狂った猟奇的暴君だった。/


  最近、よく見かける名前だが、最初はなんと読むのかわからなかった。だが、読み方がわかって、とても驚いた。時代小説などを知る人なら、気づいた人も多い だろう。広く九州では「原」は、あえて「はる」と読む。「はら」とは読まない。おそらく「はら」が「腹」を連想させる忌み言葉だから。それをわざわざ「は ら」と読むとなると、もともとはまさに「腹」だったのだろう。そして、「腹」とは、切腹のことににほかならない。

 指腹(さしはら)とは、特定の相手を名指して切腹すること。江戸時代の始めくらいまでは、かなり広く、武家はもちろん庶民まで、慣習として行われていた らしい。起源については、想像の域を出ない。そもそも切腹そのものが、古代の神明裁判の「盟神探湯(くがたち、熱湯に手を入れて火傷しなければ潔白)」の ころからの、赤心(偽りなき心底)を示す最終方法だったらしい。それは、たんなる自刃(自殺)ではなく、また、みずからの罪をみずから処断する自決として の切腹とも違う。たとえば、追い腹のように、二君に見(まみ)えず、主君(衆道の愛兄)と生死を共にする、とか、さらには、男女の心中なども、おうおうに 一種の指腹だろう。


 江戸時代においては、喧嘩両成敗の司法の大原則がこれを後押しした。だれかに理不尽な処遇を受けたとしても、それに直情的に激昂して刀を抜けば、それだ けで本人はもちろん家まで潰されてしまう。そこで、怒りの相手を名指しし、第三者の見届け人の前で切腹する。腹を割いて、赤心を示し、自分にはまったく非 が無いことを証明する。この後、見届け人はすぐにその血刀を、名指しされた相手に届ける。こうなると、相手の一族は、その当人の言いわけがどうあれ、ただ ちに無理やりにでも切腹させて、命を懸けて、こちらにも非が無かったことを証明しないといけない。もしもこの場に及んで、へたに一族が当人をかばったりし ようものなら、それこそまさに非がある証拠とされ、藩なり、幕府なりが、代わって一族もろとも、まとめて成敗することになる。これが指腹の慣例。


 とにかく、ほっておけば、周辺の親族友人の助太刀でガヤガヤと人数が膨れあがり、そのうえ、一族だの、藩だののメンツを懸けて、互いに無限拡大の敵討ち に陥るのが、武士の世界。ただでさえ幕府は、過剰な藩のお取りつぶしのための口実の粗探しに、密偵をそこら中に放って、世情のウワサを探っているのだか ら、どうでもいいような個人間の感情的なトラブルに関しては、当人たちを二人ともさっさと始末して、痛み分けで、最初からすべて何も無かったことにした い、というのが、双方の親族や藩の意向。


 さて、大分の指原姓だが、指腹の慣例と関係があるのかどうか。だが、大分の旧府内藩の中に見られる姓ということで言えば、この藩にはあまりにきな臭い過 去がある。第二代藩主竹内重義は、裏に手を回し、強引に長崎奉行の地位に就くと、地元有力者たちを隠れキリシタンの嫌疑で次々と捕縛しては雲仙火山の熱湯 地獄に生きながら放り込んで惨殺する一方、特許の朱印を偽造したアジアとの密貿易で巨利をむさぼっていた。あまりの横暴に、堺の商人や長崎の町民たちが幕 府に直訴。もはやこのままでは藩のお取り潰しも免れえまい、と、このとき、藩主を諫め、自決を迫るべく、指腹に出た忠君の家臣たちも少なからずいたのだろ うか。いずれにせよ、これらの命懸けの訴えよって府内藩主の悪行の数々が世の明るみに。とくにまずかったのが、神君家康公が廃棄を命じた妖刀村正のコレク ション。この猟奇藩主は、二四本も隠し持っていた。かくして、重義は切腹、お家は断絶。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

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生活の哲学  http://sumioka.doorblog.jp
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映画学を学んでみたい若者たちへ

/昨今、そこら中の大学に「映画学」専門を自称する教員がいるが、ほとんどは語学崩れ。海外で学んできたと言う若手も、その多くは映画について学んだだけで、映画が作れるわけではない。芸術大学には、きちんとコースがあるが、これも、分野の壁が厚く、時代に追いついていない。ようするに、だれも君に教えられない。むしろ、新しい「映画学」は君が作るものだ。/


 将来性のある映画や映像の作り方について学んでみたい、という若者は少なくない。実際、これからの国際コミュニケーションの主軸は、メールよりも会話、そして映像に変わっていくだろう。では、それを教えてくれる大学があるか、というと、はてさて。


 とにかく昨今の大学には、どこもかしこも、自称「映画学」専門の教員が腐るほどいる。しかし、その実体は、もともと独語や仏語、露語、英国英語などの文 学研究者だったのに、志望学生がゼロになってしまい、学科も潰され、一般教養に潜り込んで映画を見せてお茶を濁しているだけ、というような連中がほとん ど。


 ドシロウトのくせに、映画が大好き、という私的な趣味だけで、大学水準の学問として学生に教える資格があるのか。多くの映画を知っているだけで映画がわ かるなら、百回も家を引っ越した北斎や国周は、大工にだってなれただろう。そもそも、いくら立派な法学者であっても、かってに医学者にはなってはいけない のと同様、専門分野を変えるなら、相応の学位を一から取り直すのがアカデミズムのスジだと思うが、連中をクビにしても捨てる山が無いから、業界のナアナア で、このかってな自称を黙認しているのが実情。


 海外の大学できちんと専門的に映画学を勉強してきた、という若手も、話は簡単ではない。映画学は、映画についての学問で、作家論や表現論、歴史論、文化 論、そして、製作論などを含んでいる。逆にいうと、映画学の専門家と言っても、その大半は、製作論に関しては、あまりに現場を知らない。だから、彼らにし たって、学生にカメラの回し方なんかでさえ、教えられるわけがない。


 ちゃんとカメラの撮り方、映像の編集の仕方を学びたいならば、一般大学の「映画学」などという言葉に惑わされず、きちんと芸術大学へ進むべきだ。大阪芸 大、日大藝術学部、日本映画大学をはじめとして、多くの芸術大学で、映像関連のコースを整えている。しかしながら、これだって問題は多い。というのも、映 像関連と言ったって、大手スタジオの商業長編映画出身の教員もいれば、社会派のドキュメンタリールポルタージュ専門の教員もいる。わけのわからない芸術的 実験映像ばかりを弄くり廻している教員も。そのうえ、いまだに映画と、テレビやCMの間には、妙に厚い派閥の壁がある。どのみち、フラッシュアニメだの、 ボカロだの、レタスだの、となったら、もはや古い教員連中には誰も手に負えない。


 ようするに、手取り足取り教えてくれる映像の先生なんか、この国には、どこにもいないのだ。昔ながらの映像の基礎的な表現方法はきっちり勉強しておく必 要があるが、古い連中が昔の映画について語り合うだけの「映画学」など、老人ホームの茶飲み話も同然。それより、君は、とっとと作品を作ることだ。目の前 にYoutube がある。海外の若手の作品を参考にしながら、自分でもショーケースと呼ばれる10分未満の短編を作ってみよう。そして、かならず英語の字幕をつけよう。数 を作っていくうちに、自分のテーマ、自分の風合いが、おのずから見つかってくるだろう。


 わからないことがあったら、好きな映画や番組、CMの監督やディレクターに直接に会いに行ってみるといい。君が真剣であれば、きっとかならず親身に教え てくれる。実際、私もそうやって多くを学んだ。私に答えられることがあるなら、私が答えよう。若い君たちは、新しい作品を作れ。その試行錯誤の格闘こそ、 明日の「映画学」だ。



by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士 (大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

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