純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2014年01月

海外で値切ってはいけない

/半端な旅行慣れが一番危ない。現地には現地の事情があるにもかかわらず、日本国内の感覚で好き勝手なところに入り込み、現地の運転手や店員に横柄に接していれば、いつかどこかで闇討ち遇う。/

 なまじ語学ができて海外旅行慣れしたやつは、端で見ていて、おそろしい。平気で自慢げに海外の街の「崖っぷち」を行く。だが、よく言うように、水と安全 がタダと思っているのは日本人だけ。海外では、高いカネを出したからと言って、ろくなサービスも無く、ぼったくられるだけのこともたしかに少なくないが、 しかし、安い方は、まちがいなくいつか致命的なツケが回る。

 よく日本では、海外のタクシーでぼったくられた、などという話を聞く。だが、同じタクシーに何回か乗り、運転手と打ち解けて話を聞いてみると、日本人の 観光客は、半端に英語が出来て、わざと遠回りしただのなんだの、わけのわからない、腹立たしい文句をつけてくるので、ほんとうは乗せたくないのだ、と言 う。海外の多くの国は、都市のみに人口が集中しており、複雑な交通規制が布かれている。そのうえ、通行もはばかられるほどヤバい問題地域があったり、二重 縦列駐車だらけだったり、大通りを遮断して特定曜日に朝市があったり。なのに、道しか描かれていないガイドブックの地図だけを見て、あれこれ偉そうに言わ れても、たしかに困るだろう。そのうえ、お客様は神さま、の感覚で、運転手をはなから疑ってかかって、態度も横柄なのだから、嫌がられるのも当然。

 あこがれの海外の街を訪れても、予想外の手痛い待遇に遇い、心理的に変調をきたしてしまう「パリ症候群」がしばしば話題になるが、あれは、本人の誤解や 錯覚ではなく、事実だ。タクシーはもちろん、カフェやレストランでも、露骨に日本人観光客を差別する場合がある。実際、いくらカネを持っていても、注文か らデザート、チップまで、日本人観光客は、中国人観光客とは別の意味でトラブルの元。そもそも基本的に、日本以外の国では、売り手も買い手も対等な取引 だ。相手が店員でも「敬語」が当たり前。いくら単語を知っていても、命令形にプリーズを付けただけ、なんて、まったく論外の、かなり高圧的な言い方。まし て、日本でしばしば見かけれるような、運転手や駅員、店員に攻撃的に食ってかかるような交渉態度であれば、恨まれ、後で闇討ちにされても不思議ではない。

 海外に行くと、誰にでも英語や現地語でペラペラしゃべりたがるやつがいるが、あれもかなり危ない。しゃべれば、現地事情の精通程度が知れてしまう。悪い やつらは、それを探るために、わざと親しげに話しかけてくる。だから、日本人同士でもそうであるように、べつに親しい相手でもないのなら、なにか話しかけ られても、必要最小限以上には話さない方が安全。ヘラヘラと愛想を振りまいたりせず、なにを話しかけられても、無表情にむすっと黙っていろ。それで、むし ろ逆に、言葉がまったく通じていないと思って気を抜いている連中のしゃべっていることを聞き取って、本音本心を探った方がいい。

 また、事実はどうあれ、ほとんどの海外の国で、日本人はみな金持ちだ、と思われている。まして、新婚旅行のカップルなどとなれば、相応の御祝儀のお裾分 けくらいあって当たり前と思われている。最初から期待値が高い。だから、値切る、価格交渉をするなどというのは真逆。むしろ御大尽として先にプラスアル ファを言い出してしまうくらいの方が話が簡単。値切れば、サービスも落とされる。反対に、先に多めのチップを言い出してしまえば、さらなるチップを期待し て、エキストラサービスを出してくることもある。

 いくら言葉ができても、日本の感覚や習慣で言葉を使ったのでは、みずから災いを招いているようなもの。海外では、水と安全は、タダではない。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

ワイド画面は縦に使え!

/ワイド画面は、瞬間的、生理的な視野のことしか考えていない。だが、思考は、時間的な脈絡を「視野」に収めること。電気屋に騙されてワイド画面を使っていると、瞬発脳筋バカになるぞ。/


 スマホやタブレットが登場して決定的に変わったことは、画面の使い方。大半の人がワイド画面を縦に使っている。下半分に仮想キーボードを表示する都合か ら、こうならざるをえない。ビジネスの現場でも、モニタを縦置きしてデュアルに使っている場合が少なくない。キーボード付のノートパソコンだと、ワイド画 面に加え、事務ソフトのリボンだかなんだかが上に覆いかぶさってきて、十数行しか見えない。だから、使いものにならない。よけい売れない。これらを見る に、この十年のパソコンのワイド画面化は大失敗だったと言わざるをえまい。

 もともとワイド画面、アスペクト比16:9というのは、日本発だとか。アナログ時代から走査線の多いハイビジョンを研究していて、人間の視野が横長だ、 だから、画面も横長であるべきだ、という理系の浅はかな理屈でこうなった。まあ、実際、人間の目が左右についているのだから、瞬間的な視野は、たしかに横 長ワイドだろう。だが、文化史的には、意外にも横長の方が少ない。絵巻物や歌舞伎、映画のような見世物くらい。同じ見世物でも、オペラ劇場などはスクエ ア、場合によっては縦長ですらある。

 視覚というのは、なにも瞬間的な認識のためだけにあるのではない。典型が本や図表。我々は時間や概念を把握するのに空間的な視野覚を使っている。たとえ ば針時計。時間を針の回転という空間的な広がりと移動に変換して視覚的に認識している。文章も同様だ。言葉そのものは時間線形的な音の結合体だったが、単 語や漢字にすることで無時間的な概念にしている。そして、その長々しい連なりを、文や段落、章にまとめてあげいる。

 だから、本でも、ウェッブページでも、横書きであれば、画面が縦長になるのは当然。我々は行の折り返しによって、時間や意味を文字群のまとまりにしてい る。それどころか、箇条書きでは各行の関係は同列無時間化される。これらを通覧し、大きなひとつの概念として認識するためには、全体が直感的に同時に視野 に入る必要がある。スクロールでまた時間順序化されたのでは、わざわざ文章にした意味が無くなってしまう。

 パソコンの横長ワイド画面化の弊害は、掲示板やツィッターの書き込みに見られる脳筋バカの続出でも明らか。連中の世界の奥ゆき広がりは、ワイド画面で見 える、ほんのわずか数行。だから、瞬発力だけで、目に見えたものに即座に反応する。後先だの文脈だの考える余裕も力がない。当然、他人の文章や視点も視野 に入らない。シューティングゲームかなにかなら、そんな調子でもいいのだろうが、文章というのは、表面的な言葉だけではない、いま目の前には見えていない 言外の背景や状況まで背負っている。これらをも「視野」に収めて理解しないと、本当の意味で理解できるわけがない。

 なんて書いているこの文章にも、この中の片言隻句だけに反応して、ケチをつける脳筋バカが続出するのが昨今の風潮。いや、それどころか、背景や状況を読 み解いて文章に起こすべき新聞記者まで脳ミソが動物化して、あちこちに噛みついて内政から外交までグチャグチャに掻き回している。そもそも、政治家や経営 者でさえ、どこかから流れてきた数行の情報に過剰反応して右往左往。頭の中まで横長ワイド画面化してしまっている。

 電気屋のハイビジョン教に付き合って一緒に脳筋バカになる義理もあるまい。ワイド画面は立てて使おう。妙ちくりんな横長ノートパソコンなど買わず、タブレット縦置きに bluetoothキーボードを外付けして縦長ノートとして使った方が、ずっと仕事も捗るぞ。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

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