純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2014年02月

​高学歴ほど貧乏になる

/高学歴の者は、一般に高収入だが、上昇志向ゆえに無理な生活拡大をして、可処分所得や資産蓄積が少なくなる傾向がある。人のサルマネなど止めて、身の程をわきまえ、自分の生活水準での豊かさを求めた方が幸せなのではないか。/

 ジュリエットBショア博士(ボストン大学社会学教授)は、リーマンショック前の米国東南部テレコム従業員の調査などを元に、高学歴ほど貧乏になる、と指摘した。彼女によれば、高学歴者は、高収入であっても消費過剰で、可処分所得や資産蓄積が少ない。

 地方から大学に進む者の多くは、都会で就職し、いわゆる中流階級(サラリーマン)となる。彼らは、良くも悪くも、社会的な上昇志向が強い。このため、彼 らは、もともとの出自の社会階層を切り捨て、上の「将来」の社会階層に生活を準拠させようとする。くわえて、安定した仕事という社会的信用が、ローンやク レジットによって収入の先取りを実際に可能にしてしまう。たとえば、車や家はもちろん、時計やスーツでさえ、「将来」まで使えるような1ランク上の良いも のを買おうとする。ところが、しょせんは雇われ人。たとえどんなに順調に収入が増えていったとしても、複利的に急上昇し続ける上流や成金の収入との乖離は 広がり続ける。このために、いつかどこかでレファレンシャルクラスへのフォローが破断する。後に残るのは、高金利の借金の山と、意味の無いムダな贅沢品の ゴミ。この破断が、まさにその後の2008年のリーマンショックで露呈した。

 もちろん都会へ行って、大学を出て、知らない人々の生活を見て、世界の視野を広げるのは、大切な人生勉強だ。だが、わかってもいないくせに、人のサルマ ネをして、ブランド品を買いあさり、高級レストランを食べ歩き、美術館だ、音楽会だ、と、毎日、見栄をブログで自慢。やればやるほど、コンプレックス(強 烈な劣等感ゆえの優越感の切望)が痛ましい。かつて有名お嬢様私立大学において一群の女子学生たちが売春クラブとして摘発されたが、その動機は、大学で本 物の金持ちのお嬢様たちと同じようなブランド品を持っていないと恥ずかしいから、というものだった。だが、売春で逮捕され、退学になることを、人間として 恥ずかしいとは思わなかったのだろうか。

 小学校ですらそうだ。世の中にはケタ外れの金持ちはいくらでもいる。また、何世代も前から趣味やセンスが身についている家の人は、長年の人脈や縁故もあ り、さほどカネをかけずとも、いろいろな事をさりげなけなくやってのける。だから、他の子と同じように、などと、出自の違う家庭がマネをしようとしても無 理なのだ。無理をすれば、家計も、家族仲も、破綻する。そんなことを、当の子が望んでいるとでも思うのか。

 十九世紀末、ヴェブレンは見せびらかし消費に注目したが、上流はもはやとっくにそんな遊びには飽き、遅れてきたIT成金と中流階級が、いまさらそれに どっぷり浸り込んでいる。しかし、ディデュロ効果として知られるように、たった1つでも身の程を越えるものを生活に入れてしまったら、それが連鎖的にギア アップを起こして、他のものも上のランクへの買い換えを促し、爆発循環的に生活を拡大していってしまう。たとえば、車を買った、家を買った、それどころ か、時計一個、スーツ一着を買っただけで、それに合うように、新たなものを次々と買い揃えていかなければならなくなる。

 いくら上昇したところで、あなたとは別人の仮面なら、いったいだれが立派になったのか。ビートルズの『ゲットバック』ではないが、自分の出自、自分の水 準に帰ろう。あなたにはあなたの生活があり、それが本来のあなたであり、世間がどう言おうと、それはべつに人に恥じるようなものではない。むしろ、その本 来のあなたの生活を、豊かに、心安らかにくつろげるものにしていってこそ、あなたのほんとうの幸せなのではないか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。

佐村河内のものは佐村河内に

/だれが著作者かは、その発意と責任で決まる。だれが実際に作業しようと、それはただの work for hire で、著作者たりえない。だが、発意そのものがパクリの寄せ集めとなると、そもそも著作物の定義を満たさない。/

 この問題、どうもドシロウトたちが引っかき回して、無用にややこしくしてしまっているようだ。新たなワルが、わざわざ「ゴーストライター」だの、「共犯者」だの、世間の誤解を招くようなスキャンダラスな表現で、次の金儲けを狙っているのも気に入らない。

 S村氏(生身の人間)が楽譜が書けない、楽器が弾けない、だからうんぬん、などというのなら、大阪城を作ったのは豊臣秀吉じゃない、大工さんだ、みたい な小学生並みのトンチ話になる。石一つ運ばず、釘一本打たずとも、それどころか本人は死んでしまっていても、クフ王のピラミッドはクフ王のものだし、金閣 寺を作ったのは足利義満だ。なぜそういうことになるか、というと、著作者の定義は、実際に手を動かしたかどうかではなく、一般に(映画に限らず)、その発 意と責任で決まるから。つまり、アイディアを思いついて、かつ、その完成にカネを満額払った人のもの。ペンキ屋のような work for hire (カネで依頼された仕事)は、他人の創作意志に服従するものであり、したがって、その創造性は依頼者の側に帰することになる。(途中で支払を踏み倒した場 合は、完成意志の挫折なので、この限りではない。)

 でも、実際に作ったのは私だ、だから、私のものだ、というような左翼の労働価値説的な誤解は、しばしば大きな紛争になる。有名なところでは、1999年 から争われた『宇宙戦艦ヤマト』を巡る西崎義展と松本零士の裁判。当然、西崎が勝訴。同年には『キャンディ・キャンディ』でも、水木杏子といがらしゆみこ で争われ、これまた当然に水木が勝訴。もしも、こんな作業者の理屈を認めたら、あなたが苦労して建てた家まで、大工のものになってしまう。とはいえ、逆 に、裁判に依らず、実力行使で左翼が実質的に勝ってしまった例もある。1975年の『フランダースの犬』は、『アルプスの少女ハイジ』と同様、高橋義人の 発意で始められたが、本橋浩一、宮崎駿、高畑勲らの主要製作現場スタッフが別会社に移ってしまい、その完成責任を果たせる目途が立たなくなるように高橋を 追い込み、まるまる乗っ取りに成功した。

 日本では、米国と違って製作現場に口約束が多く、このために、依頼のはっきりしない法人と、実際に動く生身の人間との間で、work for hire を巡る揉め事が起こりやすい。そこで、八手三郎(76~、東映の特撮シリーズ)、矢立肇(サンライズのアニメ)、東堂いづみ(東映アニメ)のように、持ち 株会社のような架空の著作者を明確に立て、これを法人の共同ペンネームとして引き継ぐことが行われている。逆に、近年はかつて実在した生身の人間である長 谷川町子や臼井儀人、やなせたかしなども、同じような扱いになってきている。

 そもそも、マンガでは、週刊に応じられる量産のプロダクション制によって、かなり初期から著作者が生身の人間を離れてしまっている。マンガの神様、手塚 治虫はどうしても自分自身で手を入れないと気が済まなかったそうだが、石ノ森章太郎だの、赤塚不二夫だのともなると、本人抜きでも仕事が進むような仕組み になっていた。いや、古代ギリシアの昔から、絵や彫刻の大作、建築の請負となると、生身の人間の手にあまり、工房制によって、著作者は、発意にすら関わら ず、その責任だけ負う、ということがよくある。現代でも、丹下健三も、本人が死んでも事務所は稼働している。安藤忠雄や黒川紀章にしても、自分ですべての アイディアから出していた、などとは、およそ考えられまい。

 さて、話は戻って、今般の佐村河内の一件だが、音楽では、歴史的に事情が異なる部分がある。絵画や彫刻の場合、細部の依頼がしにくく、単純に主題のみが 与えられ、ダヴィンチなどですらコンペをさせられている。それゆえ、たとえ注文の売り物であっても、アイディアから画家のもの、ということができる。とこ ろが、音楽の場合、ほとんどの音楽家が、王侯や教会の雇われ使用人の身の上だった。そのうえ、雇い人もヘタながら楽器を嗜むことも多く、けっこう細かい妙 な指示を出し、それを天才的な使用人音楽家にパズルのように解かせてパーティで来客に見せびらかす、などということが行われてきた。このため、仕官求職の ための献呈でもない限り、実質的には、ほとんどすべての作品が work for hire になってしまう。そこで、これらについては、work for hire であっても、依頼者ではなく、実際の解答者である音楽家を著作者とするという慣例がある。

 佐村河内の一件をさらにややこしくしているのが、その作品とされているものが、結果としてポストモダニズムであるということ。ひとことで言うと、米国ラ スヴェガス、日本のパチンコ屋街、ラブホテル街なんかと同様、ドシロウト受けしやすい下品で通俗的でキャッチーなモティーフの寄せ集め。自由の女神とルク ソール宮殿、ホワイトハウスが、ネオンきらびやかに乱立しているような状態。ごった煮ほどにも、相互に溶け込んでいないものが継ぎ接ぎになっており、朝の 新宿の街を掃除する髭面のオカマ並みに興ざめするような生臭いシロモノ。こういうポストモダニズムの作風は、古くは後期標題音楽としてワグナーやチャイコ フスキーなどに見られ、二十世紀のミュージカルで一般化。いろいろな作風を操れるという音楽エンジニアの腕の見せ所。さらには、一曲の中に、ある時代の雑 多なパターンをポストモダニズム的にぶち込むのも、日本の歌謡曲では鉄板。たとえば、佐々木勉の『夏のお嬢さん』から、奥田民生の『これが私の生きる道』 や大友良英の『あまちゃん』などなど。歌詞でも、山口洋子の『ヨコハマたそがれ』が典型。

 S村氏は、自覚があってか無くてか、この手法を、停滞する日本のクラシック界に持ち込むことで、ドシロウトにまでCDを売ることに成功した。このスジで 先行するものとしては、宮川泰の『ヤマト組曲』(「20世紀の白鳥の湖」だと!)だの、ジョン・ウィリアムズの『スターウォーズ組曲』(『野生のエルザ』 の上下反転型!)だのがあり、これに「現代のベートーベン」などという作曲家のヴィジュアル、ヘレン・ケラー並みの「多重障害の感動」まで着けたのだか ら、売れないわけがあるまい。いまさら、このS村氏は曲が書けない、などと言われて、どうして驚く必要があるのか。作り物のキャラで売っているDーモン小 暮だの、K姉妹だのと、どこが違う? まともに歌の歌えないアイドル歌手など珍しくもなく、ネット時代のいまなら最初からパクリとして排除されていたはず の大物アーティストや有名漫画家が利権に守られ、大量に跋扈しているのが日本の現実。

 N垣氏にしても、いまさら「お金が欲しいのではなかった」などと言っても、曲がりなりにも依頼書があり、カネを受け取ってしまっている以上、典型的な work for hire で、著作権を放棄するもなにも、彼にはもともと著作権は無い。なら、S村氏のものか、というと、商売のやり方に独創性はあっても、依頼書がパクリの指示ば かりでは、「思想又は感情を創作的に表現したもの」とは言えず、著作者たる独創性が認められない。

 佐村河内は、まさに日本文化の現状とコンプレックスを象徴する。そのふざけた悲劇の虚像の存在そのものが、生身のS村氏でもN垣でもなく、現代日本のマ スゴミと大衆が共謀共同正犯として捏造してきてしまった化け物であって、「佐村河内守」は、我々の時代の恥ずべき共同ペンネームともいうべきものだ。それ は、東京の街などと同じく、ヨーロッパなのか、アジアなのか、よくわからない。やたらとキャッチーだが、借りものの寄せ集めで、独創性のかけらもない。全 体としての統一感もないくせに、むやみに壮大。こういう妙ちくりんな、汚らわしいものは、伝佐村河内守作とでもして、正倉院かどこかに、数百年、塩漬けに しておけ。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

奨学金には手を出すな

/「奨学金」とは名ばかりで、実態は若者を喰いものにする貧困ビジネス。いったん借りたら最後、返済まで20年以上もかかり、きみの一生、一家の将来まで破綻させてしまう。まして、講義をサボり、単位を落とすと、卒業もできず、就職もできず、わずか数年で廃人に墜ちることになる。/

 四月からの新生活を夢見る若者たちに水を差して悪いが、奨学金には手を出すな。あれは典型的な貧困ビジネスだ。人生のスタート前から借金まみれなるぞ。かろうじて自分はうまく返済できても、子々孫々まで、借金まみれになるぞ。

 そもそも「奨学金」なんていう名前がインチキもいいところ。本来の奨学金、英語のスカラーシップは、まさに将来ある有為の若者の勉学を奨励するもので、 日本でも、大学や企業、県人会などが無償の善意で、学費免除や生活支援をしている。一方、日本で一般的な旧「育英会」、現「学生支援機構」のものは、英語 のスチューデント・ローンと呼ぶべき、ただの巨額の個人の借金。なのに、金利その他を補填している分が奨学金なんだ、などと屁理屈を言う。やつらは、世間 知らずの若者を喰いものにする天下りの闇金屋。

 本来の渡し切りの奨学金は、若者の将来性を見極める側も、共にリスクを負うのが当然。だから、かなり慎重に人物を審査厳選する。ところが、学生支援機構 の二種奨学金は、年収1300万円以上(在学中なら年収1485万円!)の家庭で、並み程度の成績でも申請できてしまう。この審査は、大学側の学生委員会 が行うことになっているが、時勢からして家庭の経済事情を個別に根掘り葉掘り調査するわけにもいかず、本人の申請があり、枠に余裕がある以上、事実上のフ リーパス。そのせいか、在学中無利息で、月12万円もくれる、となれば、もらわないと損、みたいなバカが出てくる。

 だが、月12万円で4年間借りると、卒業時には576万円の借金だ。これに年利3%。まともに就職できても、大卒の正社員初任給は月20万円弱。ただで さえ新社会人は、いろいろ出費が多い。年末にボーナスから17万円を返済しても、元金は減らない。無理をして最初から毎月3万円以上を返済しても、年間で 36万円、元金は19万円ずつしか減らない。総額は775万円にもなり、完済まで最低でも20年。つまり、22歳で卒業しても、42歳以降まで借金に追わ れ続ける。結婚して、子供にカネがかかるようになってもなお、自分の学費の始末を続ける。家なんか持てるわけがない。そして、子供もまた奨学金。一家一 族、子々孫々まで、ずっとまるまる借金漬けで貧困世帯に墜ちていく。

 まして、もしも正社員に就職できなかったら、借金は複利で雪だるま式に膨れあがり、返済の目途など立ちようも無い。そんな借金まみれのサイマーなんか、 まともな就職や結婚ができるわけがない。もっとミジメなのが、在学中に破綻するやつ。奨学金の審査は、最初だけではない。在学中に、毎年、継続願を出さな ければならない。ところが、その都度に「適格認定」があって、講義をサボり、単位を落とすと、奨学金は打ち切り。ただちに退学、返済とならざるをえない。 高校で並み程度でも、大学に来れば、みなそれ以上なのだから、並み程度にチンタラやっていたら、まちがいなく並み以下に落ち、奨学金も打ち切られる。そし て、ただでさえ就職難の時代、並み以下の成績の大学中退サイマー廃人に、まともな仕事などあるわけもなく、こうなると、死ぬまでカネの取り立てが続くだ け。

 これが現実。奨学金の甘い誘惑は、きみの将来を破綻させる呪いだ。カネが無いなら、本気でがんばって、成績優秀者として、大学の学費免除、企業や県人会 などの本物の奨学金を取れ。生活は、ただ勉強のためだけと割り切って、三畳一間の下宿に転がり込み、臥薪嘗胆の四年を過ごせ。どうしてもやむなく奨学金に 手を出すなら、他の学生と自分は別の世界に生きていると腹をくくり、ひたすら勉学にだけ打ち込め。

​アーティスト・ワナビーという病い

/現代大衆社会の無名の恐怖から、ドシロウトは、現代アートだったら自分にもできそう、などと勘違いする。そうでなくても、近年は、アーティストをタレントとしてヴィジュアルで売り出すのが当たり前になって、イカモノだらけ。だが、本物のアーティストなんて、およそ幸せではない。才能も無いくせに、バカなことはやめておけ。/

 偽作曲家の話題が世間の耳目を集めているが、アートの業界では、近年、この種の似非アーティストは世界的に大量に発生している。それは、共同体を喪失した現代大衆社会と表裏一体の、一種の人格障害的な病いだろう。

 彼らは、アーティスト・ワナビー。芸術家になりたい、というだけの連中。絵が描きたい、曲を作りたい、小説を書きたい、というのではない。そういう面倒 なことには、まったく関心が無い。だから、人の作品をパクることも厭わない。連中の言い分は、どうせパクられる側だって、それより前のパクリだろ、と、創 造性の根幹も理解していない。BーズやKワタなんか、その典型。今回、ゴーストに頼んでカネを払っていたなら、まだ「良心的」かも。

 彼らの性根にあるのは、無名の恐怖。サルトルが言ったように、現代大衆社会において、一般人は自由を呪われている。ネコは生まれながらにネコであり、 オーナー企業のバカ息子は世襲で社長になれる。だが、一般人はそうはいかない。満員電車に詰め込まれ、何事も人数でしか勘定されない。それどころか、学歴 を途中でドロップアウトすれば、その人数にすら入らない。無だ。たとえ生きていても、この世にはいない。

 いまの時代、司法試験で弁護士に、とか、新党に潜り込んで政治家に、とか、人生の無から一発逆転を狙うドロップアウターだらけ。しかし、これらも、相応 の才覚と努力がいる。ところが、白紙の楽譜だの、市販の便器を転がしただけだの、わけのわからない文章が連なっているだの、ジョン・ケージやフォンタナ、 デュシャン、村上春樹を見て、ドシロウトは、ひらめく。こういう現代アートの分野なら、自分でもできそう、と。

 ピカソやダリ、ウォルホールや岡本、そして、ラッセンやキンケード、ヘミングウェイや太宰、カラヤンから中村・清水など、戦後、マスメディアの大量生産 大量販売に乗せるために、クラシックなアートもアーティストをタレントとしてヴィジュアルで売り出すようになった。障碍者アーティストは世に溢れかえり、 近年は、ポッツやボイル、へリングやバンクシーのように、市井の埋もれた天才、というのが大流行。だから、昔のお涙頂戴アイドルさながらに、そういう「感 動の物語」をでっち上げ、映画だ、紅白だ、オリンピックだという大舞台に向けて、周到な準備でプロモーターがアーティストを売り出すのは、もはや業界の国 際標準の常套手段。

 今回の一件は、そういうチーム内の分裂抗争で、業界ではよくある、鼻で笑うような話。(日陰のゴーストを主人公とする新しい「感動の物語」の絵図を画い た別のワルがプロジェクトを乗っ取った。マスゴミも、世間も、またそれに乗せられているだけ。)曲そのものが良い、などというバカがいるが、曲は既存スコ アの切り貼りで、まともな耳の専門家なら聞く耳すら持たないような値段相応のシロモノ。かのゴーストライターは、映画などの効果音作りのためにオーケスト ラ譜を器用にいじくれる音楽エンジニアであって、モティーフの創造性と、それに対する執着が無い。これは、アーティストとしては致命的。「感動の物語」の 外面を音できれいに塗り飾るだけのペンキ屋。このチームを持ち上げていた指揮者だの、評論家だのも、平気でカネで自分の耳を売る同類の売春人。

 本物のアーティストの内面は、みな幸福ではあるまい。偽アーティストはそれを見事に演じてみせたが、内面の葛藤が広島だ障害だなどと説明して人に簡単に 理解してもらえるくらいなら、わざわざ難解な芸術に打ち込むまでもあるまい。音楽でも、絵画でも、小説でも、映画でも、工芸でも、舞踊でも、そのモティー フは、かってに内面から繰り返し沸き起こってくる、止めがたい情念のようなものであって、それをなんとか細切れにして吐き出して、どうにか日々を凌いでい る。書かずにはいられない、このままではモティーフに呪い殺されると思うから、作品にして、かろうじて抑え込んでいるだけ。その後に作品が高値で売られよ うと、毀誉褒貶にさらされようと、知ったこっちゃない。だから、サリンジャーのように、自分では世に出てこないアーティストがいくらでもいる。

 作らずにいられないモティーフが無いなら、それが幸せだ。無名でいられる無難さの幸運を思い起こした方がいい。それがわからないなら、激動の人生を送っ た本物のアーティストたちの本当の悲劇の伝記でも読んでみたらいい。どんなにカネや名声を得ても、だれも自分の内面からは逃れられない。だから、アーティ ストは、売れても、売れなくても、死ぬまで作品を作り続ける。

 アーティストなんて、格好だけマネしても、できるものではない。才能も無いくせに、この業界に足を突っ込んで、ドシロウトたちを騙し、マスコミで有名に なって大金を儲けても、見る目のある人、聞く耳のある人には、絶対にバレている。外面ばかりを膨らませても、からっぽの空虚さは、より大きくなるだけ。な にも解決しない。もし本当にきみがそのからっぽの空虚さに耐えられないなら、その内面の空虚さと真剣に向き合うべきだ。その底知れぬ暗い深さこそが、本当 の才能の源泉だから。そして、音楽でも、絵画でも、小説でも、映画でも、工芸でも、舞踊でも、本気で勉強し、真剣に努力し、尽きぬ思いを心の井戸から汲み 出せば、作品とともに、きみは救われる。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

ギャラリー