純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2014年05月

学生は「お客さま」じゃない

/授業料を払った以上は、お客さまだ、好きにさせろ、というのは、団体旅行で行き先を変えろというようなもの。むしろ高額の違約金を請求されて当然。学校は、カネではなく、教職員や卒業生の活動や実績でできている。それに賛同寄与することなく、カネを払っただけで偉ぶるエセ学生など、先人の苦労にたかる害虫に等しい。/

 でめぇ何様のつもりだぁ! こっちは客だぞ、高っけぇ授業りょー払ったんだ、休もうとなにしようとオレさまの勝手じゃねぇか、単位寄こせ! 卒業させ ろ! 冗談だと思うかもしれないが、こういう学生、それどころか、そういう親まで、この世に実在する。まあ、たいていは、卒業だの、単位だの以前に、人間 として救いがたい連中だが。

 カネを払った以上は客だ、サービスをしろ、というのは、経済原理として、一見、もっともらしく聞こえる。しかし、「サービス」というのは、わがままに従 うということではあるまい。学校の「サービス」については、事前のオープンキャンパスなどで、そのパッケージを明らかにしており、カネはそのパッケージに 対するものであって、それ以外は追加オプションになる。出席率が悪い場合は単位が出ない等々の学則も、事前に通知されている。カネを払ったんだから、オレ さまの好きにさせろ、というのは、団体旅行に参加しておきながら、途中で勝手に行き先を変えさせようとするようなもの。こういう「お客さま」には、むしろ もっと高額の違約金や反則金、キャンセル料を請求して当然。

 たしかに、学生からすれば、授業料は安くはあるまい。とはいえ、その程度の金額で学校全体を自分が買い取ったかのようなわがままを言うのはムリだ。

 しかし、それなら、学校はほんとうは誰のもの、誰がオーナーなのか。学校は、一般に学校法人であり、公益財団の一種。寄付行為によって創設されるが、株 式会社のように出資額に応じて出資者が所有する、というわけではない。いったん創設されてしまうと、もはや出資者たちの手を離れ、純粋独立の法人格にな る。この法人格は、そこそこの資産を持ちながらも、寄付行為に規定された教育研究理念を夢見るだけのデクノボーなので、実際は理事会によって運営執行され る。理事会は、あくまで評議員会の議決承認を必要とする。つまり、会社で言えば、理事会が取締役会、評議員会が株主総会。となると、会社が株主たちのもの であるように、学校は評議員たちのもの、ということになるだろう。

 学校の評議員というのは、最初の寄付行為の出資者やその継承者ではない。私立学校法第四十四条によれば、1教職員、2卒業生、3その他、ということに なっている。これは、学校というものが、カネの出資のみによって確立されるものではなく、教職員たちの研究教育の活動、および、卒業生たちの社会の中での 実績によって、日々に「現物出資」され続けていてこそ、その価値を保っている、ということを意味している。

 寄付行為、というと、一般の寄付と誤解されやすいが、株式会社で言えば、それは定款に相当する規定であり、学校の研究教育理念そのもの。その研究教育の 理想、夢こそが、学校の真の体だ。出資によって得られたキャンパスや校舎など、その理想、その夢のための、ただの依り代。その学校の理想、その学校の夢を 日々みずから体現していく教職員や卒業生の活動と実績にこそ、学校はある。

 この意味で、どんな高額であったにしろ、たかだか授業料を払っただけで、その学校の「学生」になれるわけではない。学校の研究教育理念にみずからもまた 賛同し寄与し続けていてこそ初めて、学校に対して自分の務めを果たしている、「払っている」と言え、ようやくその学校の真の一員となることができる。教職 員たちや卒業生たちの日々のたゆまぬ努力によってかろうじて維持されている学校のブランドにただぶら下がろうとするだけのエセ学生など、大木にたかって、 その葉を喰い散らかす害虫にも等しい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)


ただでも売れない郊外住宅

/すでに地方都市や郊外住宅地の不動産が流動性を失い始めている。いくら建物が立派でも、街や村が無くなれば、住宅としての意味をなさないからだ。にもかかわらず、相続放棄で切り捨てるのでもないかぎり、固定資産税その他は永遠に追いかけてくる。/

 住宅サイトのどこもが掲載物件数の多さを誇っている。しかし、これはかならずしも良い兆候ではない。本来、不動産物件は、売れれば消える。掲載物件数が 増えるというのは、価格を下げていっても、まったく売れないものが大量に滞留増大し続けている、ということだ。

 物件が出れば、かなりの価格でもすぐにはける健全地区と、どんなに下げていっても、まったく買い手がいないままの不良地区との二極分化を起こし、流動性 のない後者の不良地区が都市近郊、いや、都市内部まで迫ってきている。前者は、主要都市内の高層化地区か、有名高級住宅地区。地方の第二以下の都市や、主 要都市でもシャッター商店街のような地区はダメ。まして、それ以外の郊外住宅地や農村部など、なかなかの豪邸が数百万で投げ売りになっているが、それでも 買い手がいない。

 人口減だ。いくら家が百年もっても、十年後に街や村が無くなっているのでは、そんなところで人は暮らしていけない。 たとえば、離島や僻地など、家がタ ダでも、だれも住まない。自治体が生活補助を付けてもさえも、だれも越してこない。それと同じことが、かつて数千万円もした郊外住宅地で、いま起こりつつ ある。昨今の売れない家は、価格を下げさえすれば売れる、というものではなく、たとえ価格をゼロにしても買い手がゼロ。それは、その家のせいではない。そ の街、その村に住んでも、人が減って、店も閉まり、生活ができなくなっていくからだ。かつてのように、土地は有限、早い者勝ち、と思われた時代なら、クズ 土地でもとりあえず妥協しただろうが、いまは、ちょっと待ってさえいれば、もっと利便性の良い街中の、高齢者の優良物件がどんどん空いてくる。

 需給の総量バランスではなく、特定地区以外は買い手ゼロで、値が付かない。この問題がまだ表面化しないのは、かつてのバブルのおかげ。郊外住宅地に住ん でいる高齢者たちは、あのころの高値にいまだに執着しており、そんなに安くなってしまうのなら、下げてまで売ってやらない、などとノンキに構えている。だ が、これは、売りに出さない、価格を下げないことで、実質的には買い支えているのと同じ。それで、ちょっと価格を下げさえすれば確実に売却できる、などと いう自分たちの幻想に酔っていられる。しかし、それはまさに幻想だ。買い手がひとりもいない以上、タダまで下げても、売れないものは売れない。

 住宅は、たとえ購入価格がタダでも、いったん手にしてしまうと、タダでは済まない。まさにババ抜きのババ。だれも住まなくなっても、いくら評価額が下 がっても、他人に売却できないかぎり、固定資産税が追いかけてくる。借地料や管理費が累積することもある。おまけに、親族がばらけ、代襲が続き、相互に音 信不通になると、相続人を探し出して名前と住所を揃え直すだけで大変な手間になり、持分比率では採算が取れないので、どこの弁護士も整理を請け負わず、裁 判所競売すらできなくなる。所有者が揃わないのだから、どんなに朽ちても、壊して撤去することもできない。相続放棄で全部をまとめて切ってしまっておけば よいが、親の資産にこういう半端な不良代襲相続の権利が紛れ込んでいると、他の資産を相続をしてしまって何年もたってから、問題物件の累積負債の相続相当 分が請求されてくることにもなりかねない。

 ちょっと価格を下げさえすれば確実に売却できる、などという幻想は、近々、一気にはじける。高齢化で老人ホームに移ろうとしたり、相続で分割したりしな ければならなくなって、ほんとうに売りに出し、買い手ゼロ、という離島僻地並みの現実を直視することになるからだ。銀行などから見ても、融資対象にできな いところが続出してしまう。いくら当座の利用価値があっても、日本の人口減という現実の中で将来の市場性が皆無では、担保価値がゼロだからだ。こうなる と、いよいよ郊外住宅地を買う人、買える人は、ゼロになる。自己資金だけでまかなえる金持ちは、もともと、そんなヘンピなところを買ったりしない。

 戦後ベビーブーマーのニュータウン構想などというのは、まったくの虚妄だった。歴史的世界的に見れば、ある程度まで街が郊外に広がると、通勤負担が増 し、費用をかけても中心部を再開発、集積化しようとする企業が現れる。まして、日本は、今後、数十年以上、人口が急激に減少していく。地方都市だの、郊外 住宅地だの、成り立つはずもない。

 次の子供世代は、地方都市や郊外住宅地を見捨て、最初から主要都市中心部の再開発集積化地区に住む可能性が高い。そのときに売却できない地方都市や郊外 住宅地の親世代の家など、売ることはおろか、捨てることさえもできず、子供にまとわりついて、とんでもない負債になる。家はまさに不動産だ。将来も市場性 が保たれる主要都市中心部の有名高級住宅地区でもなければ、現金ないし地金など、動産として保持している方がまし。もしいま郊外住宅を持っているなら、換 金できるうちに売り逃げた方がいい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

大学進学は投資か

/もはや大学は、フローのキャッシュリターンに関し、期待値として割が合わない。だが、結婚や子育て、勉強や仕事は、経験として確実にストックになる。より良い一生を得るためには、むしろこれらにより多くのカネと時間と労力を投資することが必要だ。/

 大学は、学費や生活費、その間の逸失利益(働いていれば得られたはずのおカネ)を考えると、四年で相当な金額になる。にもかかわらず、大学を卒業したか らと言って、確実に高給の就職ができるわけでなし、高卒などに比して生涯賃金の差額で元を取れるかどうかも怪しい。直観的には、なにか手に職を付けた方 が、喰いっぱぐれも無く、それで自営の事業でも興した方が、しがない大卒サラリーマンよりはるかに収入が多いのではないだろうか。というわけで、今の時 代、ほぼまちがいなく、大学は投資としては割に合わない。ただし、この話、前提が正しいのかどうか疑った方がいい。投資という話の中では理屈があっている としても、投資であるという前提が間違っているのではないか。

 たとえば、運転免許。取得には数十万円もかかる。だが、普通免許ごときでは、それで給与を割り増しにしてくれる会社など、どこにも無い。それどころか、 車の免許があるせいで、公共交通機関を使わず、ムダに遠出のドライブをしてガソリンを浪費し、さらには、それほど乗る機会も無い車を買って、その価格と維 持費で、とてつもないカネを支出することになる。つまり、免許は、ムダな支出を増大させる元凶であって、投資としては絶対に割が合わない。だが、免許だけ ではない。旅行や語学もそうだ。出張でもあるまいに、自分で旅行に出て、費用以上の収益が出ることなど、ありえまい。語学も、プロの通訳にでもならないか ぎり、元など取れるわけがない。

 結婚や子育ても、同様。そんなもの、投資としては、絶対にしない方が得だ。いまどき、結婚で夫や妻から得られるサービスなど、家事でも、気遣いでも、プ ロの業者にかなうわけがない。まして、子育てなど、投資としては、まったくのムダ。いまどきの子供に、親の恩の見返りを期待する方が間違っている。

 にもかかわらず、なぜ人は、ムダを承知で、結婚し、子育てをするのか。人生の目標が財産で、より多くのカネを貯めればいいだけなら、棺桶に大金を詰め込 んだやつの勝ちだろう。だが、家族も無く、身寄りも無く、一人寂しく大金を残して死んでいって、なんの意味があろうか。しょせんカネは使うものだ。あの世 には持っては行けない。ババ抜きのババと同じ。人生の外貨。稼いだだけ、うまく使い切ってこそのもの。結婚し、子育てをし、壮大な人類の歴史の一隅に参画 する。

 大学というのも、似たところがある。世界中の人々が営々と築き上げてきた知の世界。そんなもの、知らなくても、死にはしないし、知ったところで、さして 役に立つわけでもない。収支としては、出費だらけ。だが、それは知の世界を巡る、一生に一度の贅沢な周遊旅行。行かれるなら、行かれるときに行っておいた 方がいい。そんなチャンスは、人生に二度と無い。

 そもそも、投資を、フローのキャッシュリターンだけで計っているのも、会計的に間違っていないか。免許同様、結婚、子育ては、跡形無く消え去ってしまう ような、ただの消費とはワケが違う。経験としてストックになる。ただし、それは、本人固有、唯一無二のものであって、免許同様、再流動化してカネで他人に 売り渡したりはできない。旅行や勉強、さらには仕事ですらそうだろう。これらによってこそ、私は私になることができる。

 勉強も、仕事も、結婚も、子育ても、その経験を生きてきたというリターンを絶対確実に得られる手堅い投資だ。だから、むしろより多くのカネと時間と労力 を割いても、一回限りの人生で、より良い自分の一生を得るために、大いに投資すべきだ。その投資をケチれば、たとえより多くの現金を棺桶に残せても、あな た自身は、何者にもなれなかった、ムダで惨めな、ババ掴みの一生で終わることになってしまう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

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