純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2014年06月

イジメを無かったことにしようとするイジメ

/都議会のヤジの一件は、個人対個人のセクハラというより、集団的なイジメ、人権侵害の典型だ。問題を隠蔽し、犯人を隠匿し、すべて無かったことにしようとする連中は、同罪のセカンドレイパーにほかならない。/

 今回の都議会のヤジは、個人対個人のセクハラというより集団的な「イジメ」、人権侵害だろう。いいおとなたち、それも人の上に立つ政治家のやることじゃ ない。だが、それ以上に問題なのは、それを無かったことにしようとする周囲の政治家連中の体質だ。これこそ、典型的な最低最悪のセカンドレイプにほかなら ない。

 こんな連中が政治家なのでは、学校でのイジメが無くならないのも当然。それが無くならないのは、それを無かったことにすることで、無くすべきものを無くしてしまうから。なにを無くしたらいいのかさえもわからなくなる。

 議事録に無い、とか、名前が特定できていない、とか、だから、不受理だ、とか。しかし、いまや議会は録画されている。音声も確認できる。議事録に無いから無かったのだ、などという方便が通用する時代ではない。そのこともわからないくらい、時代錯誤の連中なのだろう。

 イジメと闘うにaは、すくなくともまず、そこにあってはならないイジメ、人権侵害があった、という事実を認めること。それが最小限の良識だ。その良識す ら無く、そんなものは無かった、なにも問題は無い、というのは、すでにそれもまた人権侵害の犯罪だ。イジメを無かったことにすることこそ、まさに組織ぐる みの暴虐なイジメ。集団的なシカト。それがイジメである自覚すら無いとなると、もう人間としての本性からして腐ってしまっているとしか言いようがない。

 イジメは許さない。人権侵害は認めない。それを知った以上、問題に対して断固たる決意で立ち向かうのでなければ、それをなあなあで無かったことにしたら ならば、イジメたやつ、そのイジメを隠そうとしたやつらと、きみも、わたしも、同罪になってしまう。許せないことを許せないと言い、いけないことをいけな いと言うことこそ、イジメを止めさせる第一歩だ。

 口先だけで人権だ、女性だ、子育てだ、と言ったところで、「本音」は、陰でこそこそとヤジっているところにあるのだろう。人間の品性は、人の見ていない ところで現れる。願わくば、連中が性根を入れ替え、犯人みずから反省し、二度と繰り返さない、とならんことをとは思うが、シラを切る犯人とそれを匿う連中 の対応を見る限り、それは現実にはかなり難しそうだ。それなら、せめてあくまで「建前」を貫くよう、議会は議席まで完全に録画録音してしまえ。各テーブル のマイクをすべて常にオンにして、ヤジはもちろん私語まで拾って、いつでもだれにでも公開できるようにしよう。連中は、世人を代表し、真剣勝負の仕事とし て議会に来ているのだから、それくらいの覚悟があって当然だろう。そして、だれか人に聞かれて困るようなことを、公の議会の中でひとことたりとも口にする な。

 いくら悪代官仲間が匿ったところで、録音から面が割れるのは時間の問題。いや、すでにほぼ特定され、あとは声紋照合で、本人が言い逃れできない、動かぬ 証拠を突きつけるだけ。そのとき、同時に「犯人」を隠匿しようとしてきた同罪の連中も一網打尽。こんなバカなことを繰り返さないためにも、仲間を含めて、 みんなみずから辞めるところまで、社会的に追い込む必要がある。あの一件以降のそれぞれの一言も漏らさず記録録音し、だれが何と言ったか、忘れてはならな い。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

短焦点プロジェクタで4Kは必然

/たしかに液晶モニタやシネコンのスクリーンではHD=2Kもあれば十分。ところが、短焦点プロジェクタの劇的な登場で80インチ以上が当たり前になりつつあり、それとともに4K移行は確実だ。/

 ハイビジョンの次は4Kか、売れねぇよ、なんて言っているやつも少なくないが、短焦点プロジェクタの登場とともに、遠からず世界中のモニタが、すべて4K、HDの4倍、3840x2160(4096x2160)で統一されることになる。

 HD=2Kというのは、もともと35ミリのフィルムの画質相当。ところが、ブロックバスターと呼ばれるようなスペクタクル映画の名作大作は、昔から大劇 場の巨大スクリーンでのロードショー用に、倍の70ミリのフィルムを使っている場合が少なくない。この意味で、作品は、4Kで撮影、保管しておきたい、と いうプロのニーズがあった。同様に、顧客側にも、マスターの70ミリ相当の高画質で見たい、というマニアのニーズがあった。

 しかし、テレビの場合、42型で、画面幅は930ミリ。これに1980画素なので、1画素0.5ミリ未満。ふつうのリビングルームの環境で、数メートル 離れて0.5ミリ未満を、それも動画で認識できるほどの異常に鋭い動態視力を持つ人は、まず存在しない。その後、さらに大型のテレビも登場してきている が、そもそも、そういうものを置ける家庭は限られている。2006年以降のシネコンのデジタルプロジェクタなども、じつは2K(2048x1080、テレ ビのHDよりわずかに横長)しかない。いくらスクリーンが大きくても、そこから十メートル以上も離れてしまえば、リビングルームの視野角と大差ないから だ。これらの意味では、どう考えても、HD=2Kで十分。

 ところが、近年、短焦点プロジェクタの開発が急激に進展してきている。これは、従来のプロジェクタと違い、壁から十センチちょっと手前の足下に置くだけ で80インチ(幅1800ミリ=1間)以上の画面を投影する。観客より壁寄りなので、従来のプロジェクタのように観客の陰が画面に映り込むことも無い。天 井を加工して重いプロジェクタを吊す必要も無い。そもそもプロジェクタは、カメラの逆、光源にレンズだけのしろもので、液晶パネルのような物理的に巨大な 「もの」は皆無。部品自体も少ないので欠陥も少なく、製造コスト、販売コストは、液晶と較べるまでもないほど、将来的に削り込んでいける。そして、この 4K版が、今年度中に各社から次々と発売されてくる。ビジネス用から家庭用まで、さらには、屋外や地下道の広告まで、世界中のテレビやモニタ、ポスター 等々は、ほんの数年で、劇的に短焦点プロジェクタに置き換わっていく。

 テレビや映画は、世界の窓。ブラウン管は、占い師の水晶玉のようだった。それが、液晶で額縁化。いまやプロジェクタで、まさに壁の窓、そのカーテンのよ うなものになる。大きさも、ふつうの窓と同じ1間幅。ただ、こうなると、HD=2Kでは画素の大きさが1ミリにもなり、ひとつひとつのドットが目視できる ほどになってしまう。これを0.5ミリ未満にするには、どうしても4Kが必要になる。

 問題は、家やオフィスの作りがいまだに大型液晶モニタを置くことを前提とした作りになっていること。ちょっと前の馬鹿でかいCRTを置くパソコンデスク のようだ。短焦点プロジェクタで必要なのは、床から天井までなにも無い、ただ広く白い壁。これから家やオフィスを作るなら、1間幅以上の継ぎ目のない白い 壁をリビングや会議室に作っておいた方がいい。

 4Kを液晶モニタの拡大としか思えない連中には、その必要性の意味がわかるまい。だが、短焦点プロジェクタと組み合わせたとき、4K移行は、もはや必然 だ。(ついでに言っておけば、馬鹿でかい4K液晶テレビなんか、来年には粗大ゴミになる。そんな予算があるなら、もうすぐ出る4K短焦点プロジェクタを 待ったほうがいい。)


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

書籍デザイナーに未来は無い

/バブル時代、デジタル化で編集技術が飛躍的に向上し、書籍デザイナーという商売が爆発的に出版業界に食い込んだ。しかし、電子出版では、テキストデータ以上の余計なものは、あえてきれいに削ぎ落とされる。読者が本に求めているのは、見てくれのデザインではない。言葉、物語、感動だ。/

 電子出版になって驚くのが、書式の簡素化。つまり、本が純粋なテキストデータに戻って行っている。文字の大きさはもちろん、フォントや字詰めのような余 計な書式が、アップロードで、きれいに落ちる。へたにややこしい書式があると、ひっかかってアップロードできない。ようするに、そういうものは、読者側に は必要とされていない、という、電子書籍メーカーの判断だからだろう。

 とにかくひどかった。自分もその末席で仕事をしてきたが、書籍デザイナーとやらは、本の著者よりも、はるかにギャラが高かった。著者が数ヶ月、数年もか けて丹念に推敲を重ねても、若造の前読みに投げ捨てられ、出版会議でボロXソに貶され、さらに編集者や校正者の赤チェックに応じて何度も何度も書き直し、 それでようやく、出版してくださる、出版していただける、というところまでたどりつく。しかし、今の時代、初版部数も知れている。実売部数となると、さら に少ない。印税は10%、どころか、ちかごろは8だの、6だの。おまけに、支払いは、半年後の実売部数で、なんていう、シミったれた出版社もある。一方、 デザイナー。よほど奇妙な変形大型本でもなければ、どのみち、一般書籍の基本フォーマットなんて、ほぼあらかじめ決まっている。しかし、出版社側からの依 頼だから、取りっぱぐれがない。編集者と打ち合わせして、ちゃちゃっと思いつきで一晩。これで、終わり。あとは振込待ち。

 とくにバブル後の出版不況に陥ってからは、ひどかった。どこの出版社も、事実上の自転車操業で、資金繰りのためだけに出版点数を爆発的に増大させた。そ のそれぞれに編集者個人と怪しい関係の書籍デザイナーが付くものだから、連中はますます勢力を拡大。落ち目のタレント事務所がインチキ占い師にすがり付く ように、編集者は、著者そっちのけ、原稿そっちのけで、神がかった書籍デザイナーの御託宣に精神まで病的依存。それで、外見は立派だが、誤字脱字のオンパ レード、文体はぐちゃぐちゃ、内容はないよー、な、旬狙いのやっつけ仕事、ブックオフですぐに百円コーナーに入るような「本のようなもの」を粗製濫造。

 いや、本なんて、売れる売れないはデザイン次第、中身なんか関係が無い、と豪語する確信犯の編集者さえいる。実際、マンガみたいな、ちゃらい表紙に換え たとたん、バカ売れした本は少なくはない。とはいえ、そこまで言うなら、表紙の絵、だけの問題で、紙質がどうこう、フォントがああだこうだ、字詰めが、レ イアウトが、なんて、それも関係が無い。というわけで、電子書籍は、そういうのを、ぜんぶ取っ払ってしまった。デザインとして残ったのは、せいぜい表紙だ け。本体については、電子書籍リーダーとしての統一的な基本フォーマット、もしくは、読者自身が、自分の好み、自分の気分で、デザインを選べる。商品とし ての本は、純粋にテキストデータのおもしろさだけで勝負することになる。

 バブルのころ、出版技術もデジタル化で飛躍的に向上し、編集者上がり、デザイナー上がり、イラストレーター上がりの、物書きではない「著者」たちが、 エッセイから小説にまで出しゃばってきて、クォーク上でのややこしいレイアウト操作を駆使して、見た目ばかり、文字面ばかりの「作品」を量産してきた。そ の化け物が、赤文字系のファッション雑誌。縦組みと横組みに、ありとあらゆる奇矯なフォント。これでもか、という押しつけがましい写真やイラストのレイア ウト。

 だが、そんなもの、読者は求めていなかった。肝心の記事が、スポンサー付きのステマだらけ。だいぶ前にネットで聞いたような使い古しの話題だらけ。その うえ、読者なんとか、なんていう、仕込みドシロウトタレントの商売っ気の強いセルフ・プロデュースだらけ。あんなもの、だれがわざわざ高いカネを払って買 うものか。

 本に求められているのは、言葉そのもの。読んで良かった、と思える、心を打つ言葉。どんなに文字の形が代わっても、心に残り、人に語りつがれるような物 語。フォントもレイアウトも関係が無い。にもかかわらず、版面主義の旧世代作品をデジタル変換して「電子書籍」なんて言っているような時代錯誤では、出版 業界の頭打ちも当然。まあ、書籍デザイナーの「先生」方と心中するなら、それはそれ。しかし、時代も読めないくせに、出版社として人に本を売ろうというの は、無理じゃないのか。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士
(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

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