純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2014年10月

青色LED濫用の危険性

/青色LEDで日本人がノーベル賞を取ったと浮かれているが、それはあくまで物理学の中の学術的な業績。生理学的には、青色LEDが網膜損傷や睡眠障害などを引き起こすことも指摘されている。お祭り気分でそれを濫用するのは危険だ。/

 1903年、1911年と、二度もノーべル賞を取った人がいる。しかも、女性だ。放射性物質の研究を行ったキュリー夫人。パリ大学初の女性教授でもあ る。彼女はラジウムの青い光に魅せられ、その治療応用を考えた。だが、彼女の死因は、再生不良性貧血。放射能のせいかどうかはわからないが、彼女の直筆の 実験ノートなどは鉛の箱に保管され、防護服になしには見ることもできないほど汚染している。

 さて、青色LED。赤と緑と青が揃って光の三原色で云々、などという説明をやっているのを見かけたが、話はそう簡単でもない。光の研究は、ニュートンだ の、ゲーテだのの昔からあり、スペクトル分光で均一にすべての波長が揃っているときに白色光になる。最初からバラバラの三原色の混交は、その近似的錯覚に すぎない。いくらLEDで光の三原色を混交しても、スペクトル分析をすると、シアン(水色)に波長の欠けがある。つまり、青色LEDと緑色LEDの発色に は隙間がある。これを混交で補おうにも、青のスパークが強く、どうしても色が歪んでしまう。

 そもそも、昨今の白色光は、むしろ青色LEDに補色蛍光体を組み合わせて、それらしく見せているのが一般的で、これがもっとも安価。もしくは、もっと波 長の短い紫色LEDから三原色蛍光体を使ってスペクトル均一に近い白色光を生み出している。ただし、これは発光効率が悪いので、さらにエネルギーを高くす る必要がある。

 いずれの方式にしても、青色LEDないし紫色LEDが重要な鍵を握っているのは事実だ。しかし、ここで大きな問題がある。この青色LEDや紫色LEDの 光は、紫外線などと同じく、高波長、高エネルギーにもかかわらず、人間の眼ではあまりまぶしく感じない、ということ。物理学的には他のスペクトルを取り出 したりするのに好都合なのだが、もともとあまり可視的ではない。だが、可視的ではない、ということは、放射能と同様、存在しないということではない。それ どころか、青色や紫色のLEDの持つスペクトルは、不可逆的な網膜損傷を引き起こすことが知られてきている。近年、よく売られているPC用メガネというの は、それに対応したものだ。そうでなくても、これらのLEDの光は、網膜神経節細胞にも影響を与え、睡眠障害などの原因となる危険性がある。

 日本人が取ったノーベル賞ということで、今年の冬、クリスマスから新年にかけて、そこら中で青色LEDが濫用されるだろう。だが、ノーベル賞は、あくま で物理学の研究の中でのみの、画期的な第一歩としての評価にすぎない。スペクトル分析を見れば、青色LEDは、物理学的にも、いまだとてつもない異様なス パーク波長を伴っており、それを使ったまばゆいほどの過剰な装飾、それを応用した擬似的な白色光や色の表現が、我々の生活の中で、身体にどんな影響を及ぼ すのか、まだまだ生理学的な問題を多く残している。

 我々は、学術上の研究に商業的な成果を急ぎすぎている。研究は、しょせんある特定分野での、ほんの一面のみの話。それがいかに大きな応用の可能性を秘め たものであろうと、そのこと自体は、他の分野において害を生じないことまで保証するものではない。すべての光には、闇が伴う。光に浮かれて踊っているうち に、取り返しのつかない闇に取り込まれてしまう。新しいもの好きなのは、わからないでもないが、それを生活に取り込むのは、もうしばらく専門家たちの多分 野からの総合的な研究を待った方がよくはないか。それまで、せっかくの冬の日射しだ。おもてに出て、陽の光のありがたさを味わおう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

本どころか文章も読まない時代

/本を読め、話を聞け、と言ってもムダ。むしろ、文章や話の全体は、読まれない、聞かれない、という前提でないと、現代のコミュニケーションはもはやできない。/

 この記事を読んでいる人は、よくわからないかもしれない。だが、回りを見てみろ。すでに文章を読んでいる人は少数派だ。電子書籍がどうこう以前に、本なんか読んでいる人は絶滅危惧種。電車で雑誌、それどころかマンガですら読んでいる人はいない。

 みんな、スマホ。あれだって文字だ、というかもしれない。だが、彼らの読んでいるのが、文章か。段落も無い、章立ても無い、三行広告みたいなものは、文 章とは言うまい。絵文字や記号の一種としての文字で、起承転結だの、序論・本論・結論だのという文章構成は無い。言わば、サルの、ちょっと複雑な叫び声み たいなもの。

 文章だけではない。話、というものも無くなった。ボケとツッコミのような、瞬発的な言葉のやりとりはあっても、黙って人の話を最初から最後まで聞くこと には、もう耐えられない。講演会や会議などでも、トイレだの、電話だの、途中で席を立つやつが続出。さもなければ、途中で寝ている。話というものが、最初 から最後までもらさず聞くことで成り立っている、という前提が崩れている。前半だけ聞いて、もしくは、後半から現れて、それだけでああだこうだと論評す る。もっとも、その論評もだれも聞いていないのだが。

 べつにバカにしているわけではない。文章を読まない、話を聞かない人々の方が圧倒的多数で、もはやそういうものなのだと認めないと、コミュニケーション が成り立たない。気のきいた決めゼリフ、キャッチコピーだけで、全体を語り尽くすのでないと、話が伝わらない。そのうえ、それさえも聞いていない、誤解し ていることを前提にフェールセーフを何重にも張っておかないと、まさに、そんな話は聞いてない、と逆ギレする。

 自分は本を読む、話を聞く、としても、だからといって、もはや人にその良識は期待できない。本を読みなさい、話を聞きなさい、と言ってみたところで、そ のこと自体を聞いちゃいない。しかし、考えてみれば、本を読むとか、話を聞くとかの習慣は、近代の義務教育や徴兵制と表裏一体で、優秀な兵隊を作るため に、むしろ国家が国民に強制してできたもの。義務教育が崩れ、徴兵制も無ければ、べつに本を読まなくても、話を聞かなくても、人間が生きていくのに困りも しない、という方が、じつは真実だろう。

 もちろん江戸時代にもすでに寺子屋で学び、楽しみとして本や話を嗜むということもあったのだが、それよりもおもしろいものがいくらでも溢れている現代、 最初から最後まで黙って従っていないとならないような面倒な娯楽より、好きなところで始められて、好きなところで止められる、それどころか、おもしろいと ころだけつまみ食いできる娯楽の方が好まれるのは当然。

 まことに平和で贅沢な時代になったものだ。本を読まないと、話を聞かないと、バカになるぞ、などと言ってみたところで、まさに馬耳東風。彼らには彼らの 楽しみがあるのだし、古い世代の、古い趣味を押しつけられても迷惑、というのも、わからないではない。むしろ、それがわからない世代が、いまだに、古いス タイルの長々しい文章や講話を一方的に垂れ流し、それを、きちんと全部、読まない、聞かない、と言って、キレている方が始末に悪い。

 こういう1600字程度の文章ですら、もはやラテン語や漢文なみの死語。とはいえ、近代になっても、あえて大衆の目くらましにラテン語や漢文で本音を語り合った人々もいた。まあ、こうした文章も、そういう意味では、意味があるのかもしれない。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka 純丘曜彰教授博士

(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。)

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