純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2015年01月

ユトリのおわり

/次年度から大学も脱ユトリ世代になる。ユトリ世代は授業時間数が少なかったこと以上に、個性尊重の美名の下に、やりたいことしかやらなくても、ほっておかれた公教育のネグレクトのせいで、生きる力まで削がれてしまっている。その解決には自助努力が不可欠だが、自助努力ということさえ、だれからも習ってきていないので、いよいよかわいそうだ。/

 2015年度の四月から大学に脱ユトリ世代(1996年度生まれ)が入ってくる。これは移行期で、完脱ユトリ世代(2004年度生まれ)が入って くるのは2023年。もっとも、ユトっている1995年度生まれの小中学校の総授業時間数は、8307時間。完脱ユトリの2004年度生まれは、8690 時間。つまり、時間数だけで言えば、ほんの5%の差にすぎない。しかし、初等中等教育の方針が劇的に違う。このことは、青少年の人格形成、生きる力にまで 大きな影響を及ぼしてしまっている。

 もともとユトリは、1992年度から「新学力観」の学習指導要領に従って1987年度生ま れ世代が初等中等教育を受けることになった。新学力観とは、知識偏重から意欲重視へ、ということであり、具体的には、個性尊重、生涯学習、国際化・情報化 の3本柱で構成された。もともとユトリ教育は左の日教組や朝日新聞が提唱していた机上の空論だが、バブルの時期に右の中曽根と利害が一致し、病的に現実化 してしまった。画一主義と学校主義からの脱却、と言えば聞こえがいいが、教育にもっと他種多様な民間業者を参入させよう、そこに大量余剰の教員が潜り込ん で一儲けしよう、というもの。

 ユトリで学力が低下したかどうか、平均点で議論してもムダ。というのも、公教育から塾・私立へ、 画一から格差へ、という流れを決定づけたから。おかげで、それまで受験競争の元凶のように言われてきた偏差値も意味をなさなくなった。平均点を中心とする 成績の標準分布が崩れ、上位と下位に2つの成績のヤマができてしまったから。もっとも、下位の方、つまり、少子化とあいまって、ユトリの公教育だけで下層 ニートになる、もしくは、受験勉強なしにどこでもFランク大学に全入していく階層は、模試さえも受けず、塾がバタバタと潰れていくようになった。

  教育観として言えば、これは、医者一家の長男として生まれ、遅れてきた団塊左翼世代で東大法学部出の文部官僚の寺脇研(1952年生まれ、現京都造形芸術 大マンガ学科教授)と、自分自身が通信教育で教員免許を取って現場の小学校教員からのし上がってきた陰山英男(1958年生まれ、現立命館大学教育開発推 進機構教授)の戦い。ユトリが出てきた背景には、たしかに、社会の急速な変化で学習内容が陳腐化してしまう、という問題があった。それで、自力での問題解 決能力の向上に重点が置かれたが、しかし、授業時間の不足の中で、現実には問題解決以前の基礎能力や基本知識の習得が無いまま、「個性尊重」の美名の下 に、やりたいことしかやらない学童を、やらなくてもほっておく、後は「生涯学習」とやらに先送りする「無教育」が常態化した。つまり、公教育としての青少 年のネグレクトだ。おまけに、ちょうど男女雇用機会均等法の徹底とバブル崩壊の不景気で、共働きが増大し、家庭教育も子供たちをネグレクト。

  これに対し、脱ユトリの陰山は、まず朝食や睡眠などの青少年の家庭での生活習慣の建て直しから始めるべきであると主張し、これを実践した。また、計算や漢 字など、基本の徹底した反復学習を推奨。現在は、公立の初等中等教育でも、これを取り入れている小中学校は少なくない。ただ、このメソッドは、5%程度、 学校の授業時間を延ばした中におよそ収まるようなものではなく、教員と家庭の双方の相応の教育熱意が必要となり、その熱意の有無によって、今後も学校格 差、家庭格差は広がっていかざるをえない。くわえて、いまだに、生活習慣や反復学習と学力との間には科学的な根拠が無い、などという旧ユトリ派からの反動 的批判もあるが、「科学的」ということを言うなら、ユトれば学力が向上する、という理屈の方が、無理がある。

 自分もかれこれ大 学の教壇に立って三十年になるが、ユトリ世代になってから学生が大きく変わった。鉛筆の持ち方さえ、まともに習っていない。ガチガチに指を突っ張らせ、手 首で字を書いている。板書の筆写がせいいっぱいで、話の要点をノートにメモする方法を知らない。先の予定が立てられず、時間や締切を守れず、すっぽかし、 だが、悪びれもせず、後から意味不明の代替案で個別交渉に持ち込んで、死ぬ、死ぬ、と泣きわめいて強迫する。だから、同業者の大半は、見て見ぬふりで、適 当に卒業させて追い出し、さらに社会に先送り。しかし、教育に携わり、自分の息子、娘だったらどうするか、を真剣に考えれば、そうばかりもいくまい。

  ユトリ世代はかわいそうだ。連中は、つねにユトリに守られてきて、100%の努力をした経験が一度もない。だが、それこそ科学的な根拠のある話ではない が、筋肉でも、頭脳でも、度胸でも、100%の努力をしたときにはじめて、余力が目覚め、110%の力がつくものではないだろうか。そして、その次にはそ の110%の努力をして、さらに120%の力を得る。これがまさに「勉強」というものだろう。逆に、つねに80%以下のユトリ運転ばかりでは、余力の方が 90%、80%に衰えていってしまう。そして、衰えに衰えて、若いのに老人のような、泣言と愚痴と嫉妬の化け物ができあがる。

  だが、それも終わりだ。いままでは、若い者なんだから、できなくても仕方がない、で、大学でも、会社でも、許されてきてしまってきた。ところが、これから 脱ユトリ世代が上がってくる。より若い方ができるとなれば、いまや実力社会だ、どんどん追い抜いていくことになるだろう。学校でユトリ教育しか受けてこな かった世代は、自助努力で、自分の弱点を克服しなければ、後輩たちに踏みつけにされる。とはいえ、自助努力なんていうことも、ユトリ世代は、これまで習っ てきていないのだから、この状況を、人のせい、世間のせいにすることしかできまい。ほんとうに、いよいよかわいそうだ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)

テレビの人質騒ぎは利敵行為

/北朝鮮拉致問題と違って、戦場ジャーナリストの人質問題の背景には、軍事的な理由がある。それに口をつぐみ、世間の関心だけを煽るなら、「愉快犯」を図に乗らすだけ。/

 なにもしない、なにもできないのに、ただ商売ネタとして騒ぐのは、連中の思うツボ。半端なコメンテーターやゲストがやたら深刻ぶって、おまけに自 称親族みたいなのまでがわけのわからない主張の場に利用しているが、「人命は地球よりも重い」みたいなレベルの話に終始し、戦場ジャーナリズムの本当の問 題について口をつぐむなら、かえって自国民を欺くだけ。もっとも、マスコミの中にもトンネルがあるのだろうから、それを隠すのもわからないではないが。

  もちろん戦場ジャーナリスト本人たちは、ほんとうに人道的使命感で現地取材に命を懸けるのかもしれない。だが、彼らの真の重要性は、軍事的理由だ。だか ら、法外な価格で彼ら写真を買い取るやつらがいる。現代戦の空爆は、攻撃側の被害を最小限に抑えて敵の威力を削ぐという意味では、とても有効だ。しかし、 それは内地攻撃であり、いくらピンポイントを狙っても、どうしても民間人を巻き添えにしてしまう。この事実は不都合だ。だから、写真を高く買い取る。買い 取ってしまえば、編集権は買い取った側にある。残酷すぎる云々の理屈をつけて、結局、握りつぶすこともできる。根本のところは、パパラッチやゴールドラッ シュと同じ。取材活動費用の捻出のためには、そういうヤマも必要なのだ、と言うかもしれないが、本末転倒も珍しくはない。

 それどころか、 じつは、なんでもない現地の日常の写真でも、軍事的にはかなり重要で、相応の需要がある。空爆は、現場をグチャグチャにしてしまう。そのために、成果がわ からなくなる。いくら衛星をつかっても、垂直構造のダメージがわからない。(だから立体映像に力を入れている。しかし、先方も、昨今、防空前提で地下構造 が当然。)だが、現地の写真があれば、その風景の建物などの破壊具合から、かなりの情報を読み取ることができる。現地のウワサや、そこからわかる心理的動 揺なども、次の軍事作戦には不可欠。戦場ジャーナリストは、いくら本人が平和の使者のつもりでも、意図せずして、大量の情報を敵国側にもらしてしまう。だ から、先方は、見つけ次第、始末するのが原則。

 じゃあ、なぜ人質か、交換条件か。かってに自分の商売で危険な地域に入ったやつの救出で、 人道理由に国家が右往左往するのか。上述のように、戦場ジャーナリストは、一般に、ヒューミント(人的情報収集)におけるキーパーソン。本人の意図とは無 関係に、連中を使っているやつらがいる。彼らは、あくまで個人的友情と称して、組織的に戦場ジャーナリストの私的活動を支援している。だから、人質を締め 上げれば、国内外の支援者が焙り出される。だからまた、人質は、なんとか生きて取り返し、どこまでゲロってしまったか、早く報告させ、手を打たないと、潜 入内通者たちや、間接支援者たちが危うい。解放までの時間がかかっているあいだに、これらが裏で順に始末されていくようなことがあれば、組織がまるごと一 網打尽。

 そんなスパイ映画みたいな話、日本じゃありえん、中学生の陰謀説だろ、と思うかも知れないが、世界の中では「平和国家」を称する 日本はどこの国にでも穏便に拠点を作れて、意外に大手なのだとか。ただし、日本のインテリジェンスは、戦前から内国公安(といっても征服域を含む)中心 で、戦後も表向きはそういうのは無いことになっていたので、近年の国際化とともに、これが内閣(警察)と防衛省、外務省でいろいろとややこしいらしく、新 人が調子に乗って隙間に落っこちたり、そのチューターが独断で動いて、かえって馬脚をさらしたり、と、いろいろ問題も起こるのかも。

 ここ のところ、政府の方が北朝鮮拉致問題以上に動いているのに、この話をこれ以上、マスコミが騒ぎ立てれば、つまようじ少年みたいに、愉快犯を図に乗らすだ け。そんなこと、「中東専門家」とやらならば、みんな、わかっていて当然じゃないの。自分自身に手がないなら、政府の対応を見守る、寺社か教会で黙って祈 りを捧げ、公式発表を粛々と待つ、という方が、お行儀よくないか。他の戦場ジャーナリストとやらも、ごろごろ出てきているが、あんたら、平和の使者気取り で、いらぬことをして、こんな風に、かえって戦争を引き起こしたりしないよう、もっと自重しろよ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)

若者の生き血をすする業界妖怪

/デビューさせてやらぬでもない、なんて言って近づいて来る業界人にロクなやつがいるわけがない。そんな連中の世話になったら、一生が台無しになる。文筆も、芸術も、本来は実力の世界だ。自分の作品を作り続けていれば、本当のファンは後からついてくる。/

ワシの命に従えば仕官させてやらぬでもない、なんて、悪代官のセリフそのものじゃないか。それで、ゴーストだ、枕だ、上納金を寄こせ、言うとおりの 仕事をしろ、なんていうことになる。連中は、高利貸しより悪質で、搾り取るだけ搾り取ったら、ぽいっ。頭も心も病的に弱い、そのくせ自意識ばかり高いユ トったバカは、いくらでも後から調達できる、才能も無いくせに、業界入りしたいなんて、もともと自業自得なのだ、いくら逆恨みされても、しょせんはゴマメ の歯ぎしりよ、いくらユトリバカでも、こっちが文字通り裸の写真、作品の出版権などを握っていることの意味くらい、わかっておろう、というのが、やつらの 考え。

かつては各所でさまざまな本気の真摯なオーディションも開かれていた。ところが、昨今は、有名タレントや有力政治家・官僚 二世の華々しいデビューを飾るための八百長の出来レースだらけ。作家などですら、国営放送にまで根を張る放送作家崩れや、その声懸かり、お手つきばかり。 その他は当て馬。才能のある若者が業界に入り込むチャンスは、いまやほとんど完全に閉じられている。それで、藁にもすがる思いで、ちょっとした有名人との 出会いにでも全身全霊を捧げてしまう。

だが、有名人、と言っても、じつはとっくに死人。長寿番組の司会者にしても、次々と生きの いい新人たちを殺して生き延びているだけ。Kヤナギだの、Tワラだの、Tモリだの、輸血が途絶えたらオシマイのリビングデッドたち。もともと取材力も情報 力も無く、時代に追いつけなくなったSグチやFタチ、新聞や週刊誌などは、過去の亡霊たちを集めて、まいどおなじみの壇ノ浦座談会。サブカルチャーでも、 半端な昔知りの連中が幅をきかせているが、評論だけの終わった死人たちは、本当の製作現場では最初から誰もまともに相手されてはいない。

こ んな死んだ妖怪連中には、最初から関わらない方がいい。チョビ髭のロッカー気取りも、不幸続きの零落作曲家も、デビュー当時に妖怪たちの世話になったばか りに、その後の人生もぐちゃぐちゃ、還暦近くもなっていまだに内情はヒヨッコ奴隷の身の上。その他のタレントや俳優、芸人、作家、漫画家、脚本家などの業 界でも、「飼い主」の檻の中でおとなしくしていればこそ。ちょっとでも余計なことをすれば、あること、ないこと、業界はもちろん、雑誌新聞まで総動員して 吹聴し、絶対確実に干し上げる。これは「ガスライティング」という手法。映画の『ガス灯』で知られるようになった。

ようするに、 こいつらは業界ヤクザ。昔からピンハネで喰っている。最初は、二度と無い絶好のチャンスと思えるようなおいしい話を持ってくるが、それは撒きエサ。利用で きそうな鉄砲玉ソルジャーを探しているだけ。こんな連中の世話でデビューできたとしても、猿回しの猿同然。自分の作りたいものなど作らせてもらえるわけも なく、足を洗おうにも、自分の作品さえ、今後は勝手に歌うな、いや、芸名だって使わせないぞ、やれるものならやってみな、潰してやるぜ、と脅されるのがオ チ。

文筆も、芸術も、本来は実力の世界だ。いくらムリにゴリ押ししたところで、華の無いやつが長く残ったためしはない。死んだ連 中の世話などならなくても、真の生きの良さがあれば、その呪縛をも破り、世間の方から光が当たる。だいいち、やつらの「業界」とやらの方が、とっくに瀕死 の沈没船じゃないか。そんな船にムリに乗せてもらわなくても、自分たちで劇団でも同人誌でも立ち上げたらいい。ネットでもなんでも、どんどん作品をアップ したらいい。デビューするのに、だれかの認可など必要ない。人の後押しがなければデビューできないなら、実力不足、時期尚早なだけだ。

重 要なのは、デビュー作であろうと、絶対に版権本体は他人に渡さないこと。絶対に大御所と共作はしないこと。まして、クレジットされない(著作権の無い) ゴーストやアシスタントの仕事は論外。他人の「弟子」として時間や才能、ネタを搾取されるより、下手でも自分の責任で公開する作品を作り続けていくことこ そ、一番の勉強。これから出版(公開)形態は、どんどん大きく変わっていく。そのときに後悔したくなければ、どんなに売れなくても、権利は丸ごと手元に残 せ。それさえあれば、努力し続ける意味がある。努力さえしていれば、いずれやがてかならず時代も変わり、過去の版権がレガシーとして大化けする。若いうち に早くヒットを出したい気持ちはわかるが、ヒットだけが作品ではない。自分の作品が作りたいなら、まさに自分の作品だけを作れ。そのときだけのニセのファ ンなど、騒ぐわりに薄情なだけ。本当のファンは、作品の後から付いてくるものだ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)

安直な特撮映画は災害被害の冒涜だ

/あの日、見た光景は、映画とはまるで違った。生きた家族が埋もれた家に火の粉が降りかかるのに、だれも打つ手がなかった。あの日の本当の恐ろしさを伝えず、無人の街を壊して嬉々とするような幼稚な連中を助長し、物と心の備えを失えば、いつかまたあの日の悲劇を繰り返してしまうのではないか。/

あの日の夜、黒い煙が赤い炎で不気味に光っていた。朝の地震は、ほんの始まりに過ぎなかった。倒壊した建物の下には、まだ助けを求めている人が大勢 いた。しかし、道路は寸断され、重機が近づくこともできなかった。あちこちでガス管が外れ、いたるところから火が上がった。水道管からは一滴の水も出ず、 消防士たちはなすすべがなかった。生き残った人々は、必死にバケツリレーで、わずかの水をかけたが、天高く舞い上がる火の粉を前に、延焼を食い止めること はできなかった。思い出すのもつらいが、多くの人が、瓦礫の下で生きながら焼け死ぬことになった。

段取りに手間取る政府や自衛隊 よりも、地元の山口組などのヤクザ、創価学会などの宗教団体、そしてダイエーの初動は劇的に早かった。これに、ボランティア、というより、親族縁者を心配 した人々が、徒歩や自転車で現地に駆けつけ、支援に加わった。マスコミは、ヘリを飛ばし、映像を撮ったが、救出や救援の邪魔でしかなかった。おまけに、ヤ クザや宗教団体の地道な活動は、妙な左翼デスクたちが、最初から最後まで黙殺した。

避難所もまた、心の安まる場ではなかった。暖 房はなく、冷たい床に段ボールが敷ければまだましな方。そこに家を失った人々が身を寄せた。またたく間にカゼが蔓延し、体調を崩す人が続出した。このひど い状況に、あえて一月の寒空で暖を取って夜を過ごす人々も少なくなかったが、やはり体を壊し、命を縮めることになってしまった。

東 宝や円谷のある成城の町に生まれ、父も関わっていたこともあって、子供の頃、怪獣映画は大好きだった。しかし、あの日、テレビの報道局内のモニタで見た神 戸や淡路の街の生の様子は、映画とはまったく違った。ウエハースのようなヘロヘロのビルの壁が折れるのではない。太い鉄筋がはじけ飛び、大小のコンクリの 塊をまき散らし、建物や高速道路が崩れ落ち、電柱や電柱が絡まり合って、人々の逃げ道を奪う。小さな爆発の閃光で火は消えたりしない。ほんの小さな火の粉 が、真っ黒い雲とともに夜空に舞い上がり、それが家族を生き埋めにしている崩れた家の上に際限なく降り注いでくる。勇壮なマーチとともに自衛隊がミサイル で攻撃すれば解決できるわけではない。隊員も、市民も、徒歩で瓦礫を乗り越え、軍手で、いや、素手で、木材や家財を押しのけ、声をからし、涙をぬぐいなが ら、生きた人を探し求める。街も、きれいなミニチュアの街路灯が並んでいるわけではない。昨日までの幸せな生活を踏みにじるかように、個人の大切なもの、 書類や写真がそこら中に散乱し、ゴミと廃材にまみれていく。

『ゴジラ』映画は、あの年、95年で作られなくなる。あの現実を見た 後に、いくら特撮だと言われても、映画は、あまりにもしらじらしい作り物でしかなかった。ところが昨今、ユトリ世代の中には、いままたあの古くさい子供だ ましに心酔するやつらが出てきた。もちろん人の趣味だから、それはそれだが、だがしかし、それなら同じように、あんな生きた人間のいない街の破壊が安直な 見世物としていまだに売られること自体が不愉快だ、現実の災害被害を、瓦礫の下で死んだ大勢の人々を冒涜するな、という立場ももっと尊重されるべきだ。

20 年目の記念番組も、朝の15秒間の話ばかり。あの日、あの地震から始まった一週間の地獄、それから今までずっと続く、終わることの無い悲しみ。街には人が 生き、人が暮らしている。街が壊れるとき、人の命が失われる。生き残っても人生が失われる。亡くなった人、砕かれた夢。あれだけの犠牲の上に、我々は多く を学んだ。にもかかわらず、あの日のことを忘れ、その本当の悲劇を伝えようとせず、無能者の全能感だけのために無人の模型の街の破壊に嬉々とするような、 想像力と人間味の無い若者たちを作り、物と心の備えを失えば、いつかまたあの日、あの一週間が繰り返されてしまうのではないか。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。近著に『悪魔は涙を流さない』などがある。)

挑発は「表現の自由」か?

/いまのフランスは、ユダヤ系・ネイティヴ系・クレオール系の三層構造で、EU不況が加わり、解決の難しい問題を抱えている。その背景を知らずに、一方のメディア戦略に乗せられると、日本まで無用の敵意を受けることになる。/

毎日、毎日、貧乏なイジメられっ子を執拗にからかっていたら、ある日、窮鼠猫を噛む、で、そいつがいきなり反撃してきて、逆にフルボッコにされ、そ れで、ボクはボーリョクには屈しないぞぉ、って、そりゃ暴力はいけないし、死んだ人には哀悼の念は抱くけど、そんなマンガを地で行くようなのって、やっぱ り、あまりにバカじゃないの。おまけに、そーだ、そーだ、団結だ、連帯だ、って、なにか怪しくないか。最初から、誰か全体の絵図画いた悪いやつがいるん じゃないか、と勘ぐりたくなる。

モンマルトルの丘の東、パリ18区と19区。あまり観光では行かないだろう。というより、行かない方がい い。いま、フランスは、どうにもならない問題を抱えている。ニュースで「移民」などと言っていたが、「クレオール」は、れっきとしたフランス人だ。かつて フランスは、中南米やアフリカに広大な植民地を持っていた。しかし、戦後のフランスの国力低下で、これらが独立した結果、クレオール、つまり、植民地生ま れのフランス人(白人、アフリカ人、中南米人、その混血などなど)が大量にフランス本国に引き揚げてくることになった。くわえて、本国では、スペインやオ ランダから移り住んだユダヤ系(セファルディム)が戦前から強力な支配人脈を作っており、これにナチスドイツ崩壊後のドイツや東欧のユダヤ系(アシュケ ナージュ)が加わった。

雑に言えば、いまのフランスは、ユダヤ系、ネイティヴ系、クレオール系の三層構造の社会になっている。し かし、EU統合で既得権者が強大な富を得る一方、ドイツ製品の流入で、クレオール系はもちろんネイティヴ系まで、若者を中心に未曾有の失業不況にあえいで おり、その敵意は、パリ市西部の高級住宅街16区パッシー、中央のユダヤ系街4区マレに向かっている。さて、この情況で、クレオール系を挑発し、ネイティ ヴ系と分断して、「国際社会」に団結を呼びかけているのは、いったい誰だ?

ドイツやイタリア、オーストリアでも、情況は似たよう なもの。南イタリア(旧ナポリ・シチリア王国)や旧東ドイツ、ウィーンなどには中国系やトルコ系、東欧系が大量流入しており、ネオナチやマフィアが、一般 市民にまで、ひそかな支持を得てしまっていて、政権中枢まで入り込むほどの勢いだ。

かつてパリ市では、地下レジスタンスの連中が 武装し、ナチス(多くのフランス人ファシストを含む)の支配を打破すべく、文字通りの「テロ」を繰り返した。昨年夏からイラクやシリアでは、「テロ国家」 のイスラム国を空爆し、事実上の焦土化で、その拡大を食い止めている。かつて「特攻」というテロをやった大日本帝国に対する東京や大阪の大空襲、広島や長 崎の原爆もまた、本土の一般国民が震え上がる「テロ」でしかなかった。

頭の軽い連中は、すぐメディアに乗せられる。うまく情報を 流そうとする連中は、もっともらしい大義名分とスペクタクル(見世物)を抱き合わせにする。だが、だれが挑発し、だれがニュースを流しているのか、そこに 隠された意図はないのか、メディア・リテラシーとして、よく自分の頭で考えてみた方がいい。

ものごとは、一面からだけ見ていると よくわからない。よくわからないことは、よくわかるまで静観するのも、知恵というものだ。自分の国ですら、周辺にいろいろ面倒な問題を抱えているのに、 ヨーロッパの内情も知らない垂れ流しメディアで調子に乗せられているうちに、いつのまにか、彼らの「連合国」の側に入れられ、関係も無いのに、パレスチナ や中東利権の問題にまで巻き込まれ、余計な敵意を受けることになってしまうぞ。


(大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない』などがある。)

ギャラリー