/ふつうの人が、ふつうの生活で、世間に広く発信するほどの情報なんか持っているわけがない。まして無から情報を掘り起こすジャーナリスティックな能力などあるまい。だから、受け売りのコピペ、リツィートだらけになる。なのに、さらなるコピペネタを探して、ネットさまよう。だが、それは空っぽ人間の受け売り中毒だ。/


 昨日今日の問題ではない。昔から学生のレポートは、どこぞの本の抜き書きの寄せ集め。それを見抜けず、高点を与えてきたゆとり教員が、その悪行を助長してきた。おかげでいまやネットは、情報は受け売りのコピペ人間だらけ。そのうえ、現代に新しい情報なんか無い、とか、すべては模倣から始まる、とか、やつら、開き直りやがる。


 ようするに、連中は、自分で情報を起こす方法を習ったことが無いのだろう。小中学校の先生から大学の先生まで、どこかの本の受け売りだけで生きてきたみたいなのがいっぱいなのだから、仕方もあるまい。Wikipediaも、結局のところ、どこかの孫引きの寄せ集め。引用でも出典明記すればいいんだ、と言うが、いろいろな他人からの引用情報がすべてとなると、それはもう「引用」ではない。他人が苦労して起こした情報をかってにタダでばらまいているのだから、いくら文章を書き換えても、情報泥棒も同然。


 いや、どうせ元の本だって、どこかの本からコピペしているだけだろう、などと、泥棒は、他人まで泥棒呼ばわりして、自分を正当化する。そうではない。情報は、言葉以前のところから掘り出して、起こし立てるものだ。


 基本は四則演算。まず同種の情報を足す。一つ一つは、事実にすぎない。ところが、集めると、そこに情報ができる。たとえば、今日は晴れ、今日は晴れ、今日は雨、などなど。これを地道に集めると、今週は晴れが多かった、という一つのまとまった情報になる。


 二つめは、同種の情報を引く。ウチの商品は今週千個も売れた、というと、なんだか良い話のようだが、他社のそれは二千個も売れた、という情報を引くと、ウチの商品はむしろ売れ行きが悪い、という、まったく新しい情報が得られる。


 そして、別種の情報を掛ける。たとえば、天気の情報と売れ行きを掛ける。すると、晴れた週は、ウチの商品の売れ行きがいい、というような、これまたまったく新しい情報が得られる。また、別種の情報で割る手もある。売れ行きを時間軸で割ると、出だしは悪かったが、その後に急速に伸び、急速に落ちた、というようなことがわかる。


 この四則演算を重層的にやっていく。すると、梅雨が長引いて売れ行きは伸び悩んだが、ようやく夏の梅雨明けで売れ出したものの、他社の新製品が出てきて、これに敗退し、一気に売れなくなった、というような情報が得られる。そして、次には、では他社の新製品にどんな点で負けたのか、売れなかった理由を割って(分析して)いく。エクセルやアクセスなどのソフトは、ただ単純に足し算引き算をするためのものではなく、こういうデータ考察をするためのツール。マーケティングの連中は、こうして駆使する。


 ひとの言行や社会の現象から情報を起こす文系となると、あたかも一枚の紙を二枚、三枚に削ぐように、さらに作業は高度になる。人間は複雑で、素直ではない。たとえば、ママなんか大嫌いだ、と言っても、それは文字通りに、嫌いだ、ということを伝えているわけではない。おまけに、人間はウソをつく。事実をねじ曲げる。悪意が無くても、偏見などで都合良く無意識に誤解する。


 あっちの本にも、こっちの本にも、こう書いてある。だから、ほんとうだ、などということにはならない。新聞も各社のものを取ったって、真相がわかるわけではない。むしろ同じことが書かれているなら、資料源が同じ可能性の方が高く、情報の品位として貧弱。たとえば、みんなが、ヒラリーが勝つ、と言っているなら、かなりおかしい。二大政党制の基礎があるという情報と掛け合わせれば、一方の情報しか出てこないのは、取材源が極端に偏っている危険性を伺わせ、信憑性が薄い。それどころか、故意の世論操作の疑いさえある。


 こういうややこしい問題からの情報の引き出しについては、ヨーロッパで聖書の研究から《解釈学》という独自の学問が立てられ、詳細なテキストクリティーク(原典批判)の技術が確立している。言葉遣いや情報傾向を集積・分析し、わざわざ人に言う意図をウラ読みして、ほんとうのところを探っていく。たとえば、夜遅く帰った旦那が、いや今日は会社の後輩の相談事でまいったよ、など言っても、いつもは遅く帰ると疲れて無口なのに、という事実と重ね合わせるなら、その後輩ってどうせ若いかわいい子なんでしょ、というところが真相だろう。


 私は親しい、私は現場にいた、ぜったいにそんなことはない、ほかのひとにわかるわけがない、なんていうのは、もっとも当てにならない。ウソをつき、ズルをやるやつは、とにかく身近なやつにバレないように、ということに意識を集中している。だから、身近なやつほど、ころっと騙される。しかし、どのみちムリがあるために、ウラ側はツジツマが合わず、もうむちゃくちゃ。だから、傍目(おかめ)の方がよくわかる。奥さんの浮気を知らないのは旦那だけ、というように。


 ウソやズルで、すでにオモテ側からしてツジツマが合っていないなら、それはウソやズルにならない。むしろ妙にオモテ側のツジツマが合っているところこそ、そこにウソやズルが潜んでいる。もっともらしい領収書や議事録、設計図があるからこそ、そこにインチキが隠れうる。取材でウラ取りが基本とされるのも、ウソやズルは、オモテではなく、ウラにこそ証拠を残すからだ。


 正義だ、倫理だ、合理性だ、と声高に執念深く言い立てるのも、うさんくさい。それは、そういう建前言葉で飾り立てないとならないような、ドス黒いなにかが腹の中にあるから。嫉妬や鬱屈、劣等感、さらには病的気質。もっとうしろめたいことを自分に対してもごまかすため。こんなことを言われていよいよ顔を真っ赤にして激昂するなら、いよいよ図星。ひとは、ほんとうにつらいとき、怒ったときには、他人向けになど、どんな言葉も紡ぎ出せないものだ。


 1990年代、ネットはプロの研究者や専門家だけの互恵的な情報交換の場だった。それが爆発的に普及して、だれでもタメで世間に広く情報発信できるようになった。しかし、だれでも情報発信できるからといって、ふつうの人が、ふつうの生活で、世間に広く発信するほどの情報なんか持っているわけがない。まして無から情報を掘り起こすジャーナリスティックな能力などあるまい。だから、受け売りのコピペ、リツィートだらけになる。そのくせ、コピペやリツィートを大量にやっているだけで、なんとなく情報社会に「主体的」「積極的」に参加しているような気になる。それが中毒になって、受け売りネタを探して、ネットさまよう。だが、ウラ取りもせず、ただ垂れ流すのは、ノイズの拡散輻輳でしかない。


 最近では、ネコを連れて出陣する猫侍の絵がちょっとした話題になった。猫侍が戦国時代にいた、とか、『昌山記談集』の中にある「江古田兵庫、二つの山の連なりたる兜の耳の如く作りたる」等との記述と一致している、とか、バカが数万人もリツィートしまくった。だが、これは、ぜんぶウソ。サッカー侍とか、ガンダム侍とか、この手のネタは、この業界では十年も前からよく知られた現代アーティストでははやりの与太冗談。ちょっと調べれば、すぐにわかったはずなのに、その手間を省き、指先反射だけで、すぐリツィート。人より早くリツィートしたとしても、それはきみの情報じゃない。きみは、しょせん空っぽだ。


 まあ、グーグルでもウソとホントを区別できない。巷間に信じられている俗説の方が上位に来る。Wikipediaも、しょせんシロウトによる情報の孫引き寄集め。出典の信憑性を学術的に忖度するテキストクリティークの技法が欠けている。今回、企業サイトが全面汚染ということで大きな問題になったが、シロウトのブログやリツィートで拡散されるデマも、かなり救いがたい。瞬速の指先反射でコピペやリツィートを打ち込む前に、まず一呼吸置いて、もう一度、よく読んで、よく調べて、よく考えろよ。それでなにか疑念や発見があったなら、教えてくれ。みんなで考えよう。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。著書に『死体は血を流さない:聖堂騎士団 vs 救院騎士団 サンタクロースの錬金術とスペードの女王に関する科学研究費B海外学術調査報告書』『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)