純丘曜彰教授博士: ニュースの蜂

『朝まで生テレビ!』の元ブレインが、硬派ジャーナリズムの精神に基づき、
浮き世の暇つぶし、憂ばらし、肝だめしに、大手の新聞やテレビがひよって
伝えないネタを、勝手取材、執着調査、偏屈考察で突き刺しまくります。 

2017年11月

バカ世界一のクリスマスツリー:ロックフェラーセンターと神戸の違い

/世界恐慌の最中、貴重な植物園の木々を倒し、そこにビルを建てることで、失業者たちは仕事を得て、冬を越えることができた。その感謝を、工事現場の労働者たちは一本の木を飾り付けて祝い祈った。それがロックフェラーセンターの世界一のクリスマスツリー。他方、その意味もわからず、MBWのように見た目だけサルまねをして、神宿る古木を切り倒すようなバカ者には、かならず災いが訪れる。/

/世界恐慌の最中、貴重な植物園の木々を倒し、そこにビルを建てることで、失業者たちは仕事を得て、冬を越えることができた。その感謝を、工事現場の労働者たちは一本の木を飾り付けて祝い祈った。それがロックフェラーセンターの世界一のクリスマスツリー。他方、その意味もわからず、MBWのように見た目だけサルまねをして、神宿る古木を切り倒すようなバカ者には、かならず災いが訪れる。/


 うちの大学もいいように乗せられ、カネを出させさせられているらしい。それで、学生たちにも紹介したんだが、どうも評判が悪い。どこかおかしい。神戸開港150年記念事業の関連事業として神戸市の賛同を得て、富山から樹齢150年の生木を引っこ抜いて来て、「輝け、いのちの樹」とか言って、神戸メリケンパークに12月2日から26日まで、有名なロックフェラーセンターよりでかい「世界一」のクリスマスツリーに仕立てるんだと。底が浅くて、悪趣味。世界一バカなだけ。意味もわかっていない後追いのサルまねは、世界に恥を晒し、大きな責任問題になるだけ。

 ロックフェラーセンターのクリスマスツリーは、いまから百年前、ニューヨークのメトロポリタンオペラが、新しい、大きな劇場を必要としたことがきっかけだった。しかし、当時すでにニューヨークは大都会となりつつあり、空いている土地など無く、地価も法外に高く、どうにもできない。この窮状を夕食会で聞き及んだ大富豪JDロックフェラーが、地域の文化振興のため、自分がなんとかしよう、と乗り出した。それも、彼が考えたのは、ラジオ放送が可能な、新時代を先取りするエンターテイメント・メディアコンプレックス、「ラジオシティ」だ。

 と言っても、空いている土地そのものが無い。唯一、可能性があったのが、コロンビア大学の庭園。ここは、1801年にできた、米国最初の植物園だった。交渉は容易ではない。くわえて折悪しく、ちょうどヨーロッパの第一次大戦後の惨状の裏返しで、遠く離れ、戦争の影響を免れた米国は好景気に沸き、とくにその中心、ニューヨークには次々と超高層ビル「スカイスクレイパー」が林立。建設費は飛躍的に高騰し、ロックフェラーのラジオシティ計画は困難を極めた。

 だが、1929年10月、バブルが崩壊し、世界恐慌へ。あれほど工事だらけだったニューヨークは、翌30年、静まりかえり、うなだれた失業者たちが街に溢れかえった。もちろん、ロックフェラーも、地獄の底が抜けるほど、損失を被った。ところが、彼は、街のあまりの惨状を見て、庭園を持つ大学と話し、全財産、全使命を賭け、恐慌の前に構想されていたラジオシティ計画をそのままあえて強行したのだ。

 この壮大な巨大プロジェクトによって、多くの失業者たちが建設の仕事にありつくことができた。百三十年以上になる貴重な植物園の木々を切り倒し、そこにビルを建てることで、自分たち、そして家族たちが、この寒い冬を生きながらえることができる。1931年のクリスマス。建設現場の労働者たちは、ひとりひとりが自分たちのカネを持ち寄り、飾りを手作りして、深い感謝とともに、一本のモミの木をクリスマスツリーにして祝った。そして、それがその後、あの「冬」を忘れまい、と、伝統になった。「ラジオシティ」は、恐慌に立ち向かったロックフェラーの勇気と偉業を讃えて、「ロックフェラーセンター」と呼ばれるようになった。

 木は、大きいがゆえに偉大なのではない。強い風にも、深い雪にも負けず、まっすぐ立ち、森を守る。切られてなお、木材として、家となり、家具となり、私たちのそばにあって、私たちの生活を支え続けてくれる。木は、我々とともに生き、また、生き続ける。一時の享楽の見世物なんかになるために、百年の風雪を耐えぬいてきたのではない。

 聞けば、今回、神戸のバカ騒ぎのために根こそぎ引き抜かれた樹齢150年の富山の古木は、モミではなく、はるかに高級なアスナロで、それも、1938年9月6日、千五百戸をも消失させた氷見大火をくぐり抜けてきた、歴史の生き証人だった。だれが抜いたのか、だれが許可したのか知らないが、これほど無法な罰当たり、けっしてただでは済むまい。実際、富山で、むりやり引き抜こうとしたら、季節はずれの台風をくらって、すでに幹がへし折れているとかいないとか。神戸で、冬に吹きすさぶ有名な六甲おろしに煽られ倒れて事故になったりしなければいいのだが。安全性が確実ではないことは、絶対にやってはいけない。去年の神宮外苑の二の舞になる。災いを忘れし者は、みずから災いを招く。



『インターステラー』を読み解く

/「星」は物語。テサラクトは図書館。SFの見せかけに騙されるな。安っぽい商品物語に耽り眠るな。穏やかな夜に身を委ねてはならない。/


 大学、それも芸術系の大学なので、通年講義で「SF論」なんていうのをやっている。その中で『インターステラー』を採り上げた。2014年、鬼才クリストファー・ノーランが自分で書いて撮った3時間近いハードSFの大作。

 どうも近頃、本のSF小説は、生ぬるいファンタジー化、というより、科学を不勉強なうえに、凡庸なアイディアを使い回した商業的マニエリスムの結果、幼稚で陳腐なライトノベルと化してしまっている。映画でも、あいかわらずの『スターウォーズ』や「マーヴェリックコミック」のようなシリーズばかりが話題になる。だが、その一方、『ゼロ・グラヴィティ』(2013)、『オデッセイ』(2015)など、けっこうなハードSF、つまり、ガチ科学もので傑作が出ている。その中でも、『インターステラー』は出色だ。

 しかし、映画だからといって、見えるものを見ていると、見るべきものが見えない。絵の具を見ていると、絵が見えないのと同じ。もちろん、映像スペクタクルとしても、とても出来がいい。砂嵐吹きすさぶ荒廃した広大な地上と、無音で無機的な密閉空間としての宇宙船の対比。そして、なにより、『デューン/砂の惑星』(1965、映画84)や『2001年宇宙の旅』(1968)をはじめとする、SFの名作のオマージュのてんこ盛り。というより、この作品そのものが、『2001年宇宙の旅』の解説として創られたと言ってもいいだろう。主人公の名前クーパーも、『ライトスタッフ』(1979、映画83)から取られている。

 とはいえ、このあたりで気付くべきなのだ。この映画で言う「星」が何であるかを。なぜ本棚を挟んで、不在の父親クーパーは、育って大人になっていく娘マーフィと向き合うのか。なぜ学校は『カプリコン1』(1977)のようなチンケな月着陸隠謀論を正史とするのか。なぜ喰いものを争い、技術は衰えるのか。

 宇宙だの、SFだのは、この作品の見せかけにすぎない。「星」は、物語そのもの。我々の頭脳は、いまや生ぬるく不勉強で凡庸な妄想とともに滅びようとしている。すでにダメになったというオクラは、科学とSFの象徴だ(米国のオクラは切り口が星形)。『フィールド・オブ・ドリームズ』(1989)に出てくるトウモロコシ畑のような夢の想像力も、ウィルスと砂に冒され、もはや枯れ果てようとしている。

 このままでは、いずれ地上に食料も酸素も無くなるということで、主人公たちは別の星への人類移住計画を立てる。可能性のある星は三つ。津波の星は、読み切れないほどの文字に溢れ、人生を失うような物語。氷の星は、宣伝ばかりで作者が喰って帰るためだけの不毛の物語。ミヒャエル・エンデあたりなら、この生のテーマを、そのまま話にしただろう。ノーランのすごいのは、これをガチ科学で目に見えるイメージにして見せたこと。

 物語は神秘的な体験だ。我々は、その世界の時間に没頭し、自分の時間を忘れる。戻ってきたときには、陽が暮れ、夜が更けてしまっている。しかし、我々の想像力は、この現実という諦めを飛び越え、別の「星」へ行くことができる。それこそが、人類を救う道。だが、いくら本を外側から表紙だけを見ていても、なにもわからない。中をくぐり抜けた者しか、報告を返すこと、道筋を伝えることはできない。

 時空を越える五次元の中の四次元テサラクトは、図書館そのもの。「彼ら」というのは、物語の読者たち。読者たちこそが、主人公をテサラクトに導く。この話からして、もともとメタな物語。だから、空間に時間、さらにパラレルな物語を含む五次元。そして、この物語宇宙を横断する「図書館」を通じてクーパーは、未来の希望を、娘マーフィに本で伝える。父親のメッセージを、娘マーフィは本で受け取る。本を通じ、マーフィは、自分を置いて去ってしまった父親が、ずっとすぐそばにいてくれていたことを知る。

 本として、クーパーは、約束通り、老いたマーフィのもとに戻った。だが、「彼ら」の一人、つまり、死を目前に控えたマーフィは言う、また行って、と。クーパーの同僚アメリアが一人降り立った第三の可能性の星は、作者も死んで忘れられた、しかし、いまなお多くの読者を待っている物語。そこへクーパーは、老いてなお、再び旅出つ。

 ある意味で、すべては、娘マーフィの頭の中での出来事。失った父親が、彼女の想像力の中では、物語のヒーローとなり、宇宙を旅して、さまざまな星を遍歴し、それでいて、すぐそばにいていつでも知恵と勇気と希望をくれ、なおまた、いまも旅を続けている。本の力、物語の力とは、そういうものだ。この『インターステラー』もまた、先に『インセプション』(2010)を作ったノーランらしい構造。

 SFの見せかけに騙されるな。安っぽい商品物語に耽り眠るな。穏やかな夜に身を委ねてはならない。陽が沈むときこそ、人が燃え上がるべきだ。絶えゆく光を断じて許すな、断じて許すな。我々に宇宙船もタイムマシンも必要無いのだ。人間の想像力は、いともかんたんに時空を飛び越えることができる。『ある日どこかで』(1980)のように、ただ念じるだけで、物語世界の中に没入することができる。しかし、我々は、帰ってくるのでなければならない。中の報告を返し、残る人々にも道筋を伝えるのでなければならない。だから、それを、ここにこうして書いておこう。そして、読書の秋(とき)、この現実という「星」を遠く離れ、別の「星」へと、きみも想像力の旅をしてみよう。


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