/日本の文系アカデミズムは、ケーベル以来、ハイデルベルク派。にもかかわらず、吉野は、左に急旋回し、敵対的にあえてマルクス主義に近いマールブルク派を礼賛。世界に帰順してこそ、人類に参加できる、と言うが、カントの「コペルニクス的転回」は、けっして、自己中か、世界志向か、などというチンケな対比ではない。むしろ、安直で素朴で独善的な世界志向こそ、天動説そのもの。何が世界かは自分次第。/

 なにやらやたら売れているということで、昔の文庫を引っ張り出して読み直したが、とにかくわけがわからない。この吉野源三郎(1899~1981)という人物は、一高東大哲学科を1925年に出ている。当時、東大にはカントを専門とする桑木厳翼がいて、それに正しく学んだはずなのだが、どうしてこうなったのか。吉野は、28年にジークフリート・マークの『マールブルク学派に於ける認識主観論』の翻訳を出している。これが謎を解く鍵になりそうだ。


2つの新カント派

 哲学で「新カント派」と言うと、しばしばこのマールブルク派とバーデン派がひとまとめにされているが、マールブルク派は、ヘルマン・コーエン(1842~1918)やパウル・ナトルプ(1854~1924)、エルンスト・カッシーラー(1874~1945)。他方のハイデルベルク(バーデン)派は、ヴィルヘルム・ヴィンデルバント(1848~1915)とその弟子ハインリヒ・リッケルト(1863~36)。まったく方向性が違う。

 共通の問題認識としてあったのは、十九世紀、理系科学が劇的に実用実利を発展させていく一方で、文系諸学が壮大な観念体系を濫立させるのみであったこと。1860年、「カントに帰れ」の標語とともに、経験や認識を「科学」的に研究するのが哲学だ、とされた。ここにおいて、雑に言えば、マールブルク派は、個々人の主観が自主自律的に総体的意志に参画することで、人類として共通の科学や文化を発展させていく、とした。これに対し、ハイデルベルク派は、科学や文化の認識や展開に、すでに共有された価値判断が含まれており、文系はその個々を淡々と記述することで、翻って我々の内面の精神的な価値体系を描き出すことができる、とする。

 後者を実践したのが、マックス・ウェーバー。各国各地域の事実としての文化誌・社会誌を記録し、それを整理していくことで、人間にとって文化とは、社会とは何であったか(事実より前に我々の内にあったもの)、を考察した。この方法は、古代のプラトンやアリストテレスなども行っており、現在の文系研究においても、基本的で穏当な方針となっている。

 では、前者は何だったのか。ハイデルベルク派と同じくカント復権を標榜してはいるものの、じつのところ、マールブルク派は、ロシア革命を目前に沸騰するマルクス主義の影響を強く受けており、カントの威を借り、マルクス主義こそが哲学の「主流」であるかのように偽装したもので、本来のカントとは似ても似つかない。

 もともとカントが、個人の主観だけで世界を論じており、社会的な間主観性についてさえ、個人の無矛盾な規範立法による自律で説明してしまっている。だからこそ、ヘーゲルによって、世界理性ようなバケモノが立てられ、観念論の形而上学体系が流行し、それを大きく唯物論へ反転させる余地を生じさせ、マルクス主義を登場させてしまった。その反転した唯物論を基底に、カントの個人認識論を載せ直すと、マールブルク派になる。

 ただし、1923年にマールブルク大学にハイデッガー(1889~1976)が登壇すると、むしろハイデルベルク派のリッケルトの克服をめざし、ハイデルベルク派の先、我が内なる精神的な価値体系の探究へ走り、総体的意志への奴隷的参加などというのは、自己放棄として徹底的に否定され、マールブルク派はまるごと消滅。


東大の新カント派

 さて、吉野が翻訳したマーク(1889~58)の『マールブルク学派』(1913)。じつは、いかにも若い大学院生が書いたような、かなり短い論文にすぎない(http://www.gleichsatz.de/b-u-t/begin/siegma.html)。書かれていることは、マールブルク派のコーエンやナトルプの敷衍で、その背景にある唯物論、つまり、対象そのものに論理的統一性があり、主観はそれを取り込むからこそ、主観としての統一性を回復でき、社会としての統一性に回帰できる、という構造を論じている。

 戦前日本の文系アカデミズムは、1893年に来日したラファエル・ケーベル(1848~1923)がハイデルベルク大学出であったことから、同じ新カント派でも、ハイデルベルク派の影響が強い。桑木厳翼もまた、ハイデルベルク派のヴィンデルバントの哲学史を1902年に翻訳し、これを教科書にしている。一方、吉野は、卒業後、二年の陸軍を経て、左に急旋回しており、だからこそ、東大図書館に戻って、師の桑木らに敵対的に、28年、あえてマルクス主義に連なるマールブルク派礼賛の小論の翻訳を出したのではないのか。

 この問題は、35年に書かれた当該書にも、大きな影を落としている。治安維持法での逮捕がどうこうは、いまは問わない。ただ、当該書の基調にあるのがマーク論文であり、その中心となる「コペルニクス的転回」というのが、致命的に間違っていて危険だ、ということは、はっきりしておかなければならない。

 「コペルニクス的転回」は、カントの主著『純粋理性批判』の根本をなす思想。もちろん、それは、天動説に対するコペルニクスの地動説のアナロジー。しかし、それは、けっして、自己中か、世界志向か、などというチンケな対比ではない。カントからすれば、安直で素朴で独善的な世界志向こそ、天動説そのものなのだ。

 カントに言わせると、時空間はもちろん、大きさや重さまで、世界のすべてに当てはまる物事はすべて、自分自身に責任がある。世界そのものは、事象がばらばらに羅列されているだけ(それすらも、ほんとうは知りえないのだが)であり、自分がそれを時空間に位置づけ、これ・それ・あれ、さっき・いま・あとで、すべて・この・とある、である・でない・ではない、などなど、自分が対象に関与する話法の概念で整理している。自分を中心とするこの統覚の働きを放棄してしまえば、世界は乱雑に羅列されたばらばらの事象以前の暗黒に解体してしまう。いわば、地球があるからこそ、地動説として宇宙を見ることもできるのであって、地球無しには、距離も場所も無く、地動説も天動説もへったくれも無い、ということ。

 ところが、マールブルク派は、唯物論を不法密輸入するために、無人の宇宙そのもの、存在こそが論理的で客観的で自明の秩序を持つ、と前提した。それは、もとはと言えば、ヘーゲルの世界理性のバケモノを反転させて「物象」化したもの。そして、我々は、それに帰順してこそ、人類に加わることができる、と言う。この手の左の「福音」は、全学連世代のサルトルのアンガージュマンなど、繰り返し世に現れる。だが、結局のところ、どう生きるかもわからん君たちは、われら意識高い系から本や雑誌で「世界」を買って知って「学習」し、「自己批判」して「回心」し、われらの御託宣を毎日「勉強」し続けろ、という左翼残党のカルト。典型的なエセ哲学。


存在の深淵

 本来のカントからすれば、存在そのものは、人知を越えた、まったくの暗黒の深淵、いっさいの光のない宇宙。それは、ただ存在するだけで、なんの教えも答えも無い。だからこそ、それに向き合って、キルケゴールやショーペンハウアー、ニーチェ、ハイデッガー、そして、現代の狭義の哲学の格闘が出てくる。そこでは、ハイデルベルク派のような、精神を振り返るために書き出し、整え並べるべき事象すらも得られず、まったくの無の暗闇に、かえって自分の目玉が裏返って見えるほど。

 自己中をやめて、「世界」に目を向け、そこで答えを考え続けろ、などというのは、まったくの子供騙し。自分無しには世界も無い。にもかかわらず、やつらは、そうやって人に「自分」を捨てさせ、目を向けさせた「世界」モドキを操り、人々を思いのままに利用し続けようと悪巧みを巡らしている。実際、この本、この雑誌が売れてますよ、読まないと「世界」に遅れて、「立派」になれませんよ、というのに、踊らされる連中がいっぱい。

 だが、それこそ、自己忘却の自己毀損。やつらの言う「立派」は、答えの無い答えを探し続け、どうでもいい与太本、与太雑誌に一生、カネを出し続けるバカな客、というだけ。来年、来月になったら消える本や雑誌の「はやり」の話題になんか、大切な人生の時間を奪われるなよ。大河の水を飲み続けても、きみは、けっして河底を見ることはできない。詐欺師はみんな「立派」で、まじめそうで、偉そうで、人気がある。だが、やつらの目的は、人々を矮小化して貶め、精神的に奴隷にして、永遠に搾取し続けること。

 きみは、きみの心の王であり、全責任者だ。きみの問題は、きみがきみであるかぎり、きみがきみという暗黒の深淵であるかぎり、他人とは絶対的に違う。だから、答えは、きみの中にしかありえない。世界などという外のことは、きみのほんとうの問題とは関係が無い。そもそも、何が世界か、は、きみの実存照明が照らす方向で、きみが自由に決められる。だから、自分で答えを出す云々以前に、余計な問いなど、他人なんかに立てさせるな。そんな隙間風、「世界」モドキに気を散らしていたら、ますます自分を見失う。

 生きるのに、問いも答えも無い。正しいも、間違いも無い。なにか考えようと、なにも考えまいと、結局、みんな、ただ生きる。いやがおうでも生きさせられてしまう。それこそが、恐るべき存在の沈黙の暗黒の深淵。しかし、だからこそ、そこに、ほんとうの自由があり、幸福があり、神がいる、とカントは言う。見かけ倒しのカルト詐欺師に、心を、人生を、自分を、盗まれるな。それより、もっとまともな哲学書を読もう。